白木村(読み)しらきむら

日本歴史地名大系 「白木村」の解説

白木村
しらきむら

[現在地名]亀山市白木町、鈴鹿郡関町せきまち白木一色しらきいつしき

小川おがわ村の南西にあり、明星みようじようヶ岳(五四九・四メートル)の東麓に立地する。むく川上流域にあたり、その渓流は白木谷を貫流、一色いつしき谷を形成する支流と合せて東方住山すみやま村に流れる。

白木村は安楽あんらく谷五郷の一にも数えられ、鎌倉初期には後白河天皇の後院領の一部であったともいわれる。室町時代になると、関氏三与力に名を連ねる白木氏の所領となり、戦国末期に至るまで城塞が構えられていたという(五鈴遺響)。永禄五年(一五六二)の永明寺領川上祠堂納(鈴鹿郡関町瑞光寺蔵)には、鎮守方として「白木ノめんさう田」壱所代七斗五升がみえる。寛永一三年(一六三六)以後亀山藩領(九九五集)

白木村
しらきむら

[現在地名]河南町白木

南北の加納かのう村の西にあり、うめ川の支流天満てんま川流域に位置する。南東部は下河内しもかわち村・なか村との錯綜地。白木は新羅と訓が通ずることから新羅系渡来氏族の居住地かとする説もある。南北朝期のものと考えられる那智山師職注文案(熊野那智大社文書)に「かわちのくにとうてうのこほりしらきのかうのちう人せんたち(中略)ふんわ四年三月十七日くわんもん」とみえる「しらきのかう」は当地一帯と考えられる。当村北部には多々良千軒の古伝があった。中世、多々良たたら村があり楠木氏に仕えた多々良氏が住んだというが(河内屋可正旧記)、南北朝期の寺田てらだの合戦以後同氏は没落して村も衰えていったという。室町時代後期の「三箇院家抄」に「竜花院末庄」として「寛弘寺多々羅庄二十五丁六反三歩 河内国」とみえる。

白木村
しらきむら

[現在地名]大口市白木

鳥巣とりす村の西にある。北は大口郷平出水ひらいずみ村、南は下殿しもとの村・宮人みやひと村・川岩瀬かわいわぜ村、西は朝日あさひ岳を境に出水いずみ郡出水郷上大川内かみおおかわうち(現出水市)。北西から東に白木川が流れ、下殿村を通って羽月はつき川に合流する。また同村から当村・平出水村を経て出水に入る道がある。伊佐郡羽月郷に属し、同郷の地頭仮屋が置かれていた(三国名勝図会)。村名は村内に白木の観音霊像があることからつけられたという(「三州御治世要覧」など)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高五一四石余。

白木村
しらきむら

[現在地名]立花町白木

北田きただ村・山下やました町の南にあり、白木川が北流する。建暦二年(一二一二)一二月一三日の将軍家政所下文案(上妻文書/鎌倉遺文四)によれば、「白木山」が北田村のうちであることから上妻家宗地頭職が認められている。寛正六年(一四六五)黒木氏らが大友氏に背いた際、白木などが大友方の攻撃を受けている(一〇月一七日「宝勝院光憧書状」大友文書/大分県史料二六)

白木村
しらきむら

[現在地名]佐賀関町白木

古宮ふるみや村の南、佐賀関半島先端の地頸部南側に位置し、東は豊後水道に面しつた島と対峙。通称に秋之江あきのえ・白木・玉井たまい室生むろうがある。天文二二年(一五五三)九月二〇日の佐賀郷関公領地検帳(早吸日女神社文書)に「たむい(玉井)分田数之事(中略)本田五段大・見上相加一町大・此外屋敷四ケ所并畑地一段・山畑三ケ所有」「むろう(室生)分田数之事(中略)本田数二段大・浮免相加六段大」「し(らカ)き分田数之事(中略)本田数四段・見上相加五段小」とある。

白木村
しらきむら

[現在地名]大分市神崎かんざき 上白木かみしらき下白木しもしらき

生石いくし村の西に続く別府湾岸沿いの村。府内から高崎たかさき山の麓にかけて沖浜おきのはま町のあし崎、春日かすが浦のかま崎、生石村のくろ崎、生石笠結かさゆい島のほう崎、当村のくじら崎・ほとけ崎、田浦たのうら村の高崎の七岬が美しい海岸線を形づくっていた。正保郷帳に村名がみえ田高四三石余・畑高四一石余、笠和かさわ郷に所属。領主の変遷は駄原だのはる村に同じで、中郷来鉢組。鎮守は三所ある天神社。明治八年(一八七五)田浦村と合併して神崎村となる。仏崎の面撃地蔵は文政七年(一八二四)駄原西光さいこう寺の戒順が六字の大名号を刻したもの(雉城雑誌)

白木村
しらきむら

[現在地名]七山村大字白木

うき岳中腹の台地にある大白木おおしらきの集落と七山川沿いの低地の狩川かりかわ樽門たるかどの集落からなる。正保絵図に「白木山村」とある。

古代、松浦郡衙から筑前国怡土いと吉井よしい(現福岡県糸島郡二丈町)への白木峠越えの道筋にあたっていた。またおにヶ城の台地続きであり、牧の存在を意味する牧の内まきのうちの地名がある。

一反田いつたんだには天元二年(九七九)に創建されたとされる白山はくさん神社がある。字古城こじようには松尾まつお大村おおむら城ともいう)跡がある。

白木村
しらきむら

[現在地名]杷木町白木

池田いけだ村の北にあり、筑後川中流の右岸、こめ(五九〇・九メートル)の南に位置する。白木谷しらきたに川が南流して筑後川に合流する。天承元年(一一三一)五月一三日の杷岐浦住人隆実請文(国立公文書館内閣文庫/平安遺文五)によると観世音寺(現太宰府市)はら庄の四至境のうち、北は「白木山横武」とあり、平安期には原庄に属していたと考えられる、弘治三年(一五五七)と考えられる一二月一三日付大友氏加判衆連署奉書(問注所文書/福岡県史資料一〇)で、大友義鎮が問注所鑑豊に杷木郷のうち一〇〇町分を宛行った際、「白木八町分」は除外されており戦国期には同郷に属していた。

白木村
しろきむら

[現在地名]遊佐町比子ひこ

日向につこう川河口右岸にあり、庄内海岸の砂丘上に位置し、北は青塚あおづか村。はま街道が海岸沿いを通っていた(「正保庄内絵図」本間美術館蔵)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録、寛永元年庄内高辻帳ともに村名なし。正保庄内絵図に「白木興ヤ村」とある。正保三年(一六四六)の庄内三郡左沢浮役帳に白木村とみえ、御役塩三六俵とある。延享三年(一七四六)の巡見使御用覚帳(杉山文書)に高四九石余、免三ツ一分、家数二五・人数一三五、海猟船五、同役金一両一歩余、うち鰯網役一両・手繰網役一歩余・刺網役五四一文・川居繰網役二朱、塩釜一〇、塩年貢九石。

白木村
しらきむら

[現在地名]多久市南多久町みなみたくまち花祭はなまつり 大野おおの杵島郡江北町きしまぐんこうほくまち大字山口やまぐち字白木

西にし山山系および両子ふたご山山系に属する山間部の集落。「丹邱邑誌」の享保六年(一七二一)の「郷村書出」では花祭村に含まれている。「丹邱邑誌」の「郷村」には「白木村 本村・片桐・谷下・大野・大多柄・猿ケ峯」をあげ、さらに「太神宮祭リニ白木片木ヲ出スニ名ト云」とある。

明治に入って白木の本村ほんむらは杵島郡山口村(現江北町)へ、ほかは下多久しもだく(現多久市南多久町下多久)に編入された。

白木村
しらきむら

[現在地名]玉東町白木

東部を北流する白木川が北東で木葉このは川に合して西流、東は二俣ふたまた村、西は中坂門田なかさかもんた村・南坂門田村(現玉名市)、南は原倉はらくら村と接する。観応三年(一三五二)一二月日の足利直冬証判伊東氏祐軍忠状(伊東家古文状)に記す同二年八月の合戦地「白木原」は、当村一帯に比定される。慶長国絵図に村名が載る。近世は小田手永に属する。「国誌」に「里俗下白木村ト云、弥五郎丸村小中尾村岡山村上古閑村箱井村折口村小坂本村早木村等ノ小村アリ」とある。宝暦一四年(一七六四)の下ケ名寄帳によると畝数四二町五反九畝余、ほかに二〇町九反一畝余があり、高六九〇石九斗余、下ケ名に次郎丸などがある。

白木村
しらきむら

[現在地名]菊池市小木おぎ

雪野ゆきの村・市野瀬いちのせ村の西、八方やほうヶ岳の南へ連なる山間の村。隈府わいふ町高札辻より約一里一七町。現在の小木のほぼ西半部を占める。天正一七年(一五八九)の検地帳に田一町九反二畝・畠四町五反七畝余、分米三六石五斗余とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田一町一反四畝余・畠二町六反四畝余、分米二五石一斗余。深川手永に属し、「国誌」は小村として上白木・岩下・中・本野・陣内・下古閑などを記す。

白木村
しらきむら

[現在地名]芦北町白木

塩浸しおひたし村の北東の山中に下白木しもしらき村、その北に上白木村があり、東は才木さいき村。近世から上下に分けられ、現在も集落は同様である。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)は上白木村・下白木村を記す。元禄国絵図に「市ノ瀬村之内上白木村」とある。「国誌」も上下の二村に分けて記し「市野瀬村ノ内」と注記する。村内に金山らしい所があり、明和八年(一七七一)試掘が許可されている(熊本藩年表稿)。佐敷手永に属し、文化一〇年(一八一三)の佐敷手永村々高附帳(熊大図書館蔵)では「下白木村八拾六石三斗余、上白木村六拾九石六斗余」とある。

白木村
しらきむら

[現在地名]鳥羽市白木町

鳥羽湾に流入する加茂かも川の中流にあり、東は松尾まつお村に接し、鳥羽から先志摩への道が通じている。「神鳳鈔」に「白木三反、畠二丁」、「内宮子良舘記」長享三年(一四八九)九月宇治兵乱の記事に「山田三方ヲ始トシテ。浜七郷三个郷神戸七郷五智白木上野一宇郷原外本田ノ勢。幾バクモ数知ズ」とみえる。近世を通じて鳥羽藩領で答志とうし郡に属する。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高一三二・四一三石のうち山年貢高一石が寛文四年(一六六四)から定引とある。

白木村
しらきむら

[現在地名]勝浦市白木

宿戸しゆくど村の北に位置する。元禄郷帳新戸しんど村枝郷の頭注つきで村名がみえ、高一四〇石。天和二年(一六八二)以降の領主の変遷は勝浦村に同じであったとみられる。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では同高で家数三五。文政一〇年(一八二七)の岩槻藩領村々書上帳では田六町一反余・畑四町三反余、新田高一六石余・二町九反余、年貢は米四三石余・永四貫五三一文余と野手役の真木九一束、ほかに醤油役永五四文余を納入。

白木村
しらきむら

[現在地名]小木町沢崎さわさき 白木

小木半島の先端にある。村の成立について延宝四年(一六七六)の証文(田野浦区有)によると、二四年以前に沢崎・江積えつみ田野浦たのうら三ヵ村の入会地にできたとある。集落は白木と三ッ屋みつやに分れ、白木は沢崎の出村、三ッ屋は江積の出村といわれる。元禄七年(一六九四)の検地帳(白木区有)では田一反余・畑二町一反余。

白木村
しらきむら

[現在地名]脊振村大字広滝ひろたき字白木

城原じようばる川支流の白木川の上流にあたり、ほとけつじ山の北側、ヅーベット山の西方にある。慶長絵図に村名がみえ、村高は記されず、「蔵谷山ノ内」とある。

白木村
しらきむら

[現在地名]関町白木一色しらきいつしき、亀山市白木町

明治二二年(一八八九)成立の白川しらかわ村に含まれ、昭和三〇年(一九五五)白木地区は白木一色が関町、他は亀山市に分割編入された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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