デジタル大辞泉
「登張竹風」の意味・読み・例文・類語
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とばり‐ちくふう【登張竹風】
ドイツ文学者、評論家。本名信一郎。広島県出身。東京帝国大学卒。東京高師、二高教授等を
歴任。「
帝国文学」の編集員として、
高山樗牛とともにニーチェ主義を唱えて、
坪内逍遙と
論争。「大独日辞典」などの
編纂を行なった。明治六~昭和三〇年(
一八七三‐一九五五)
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登張竹風【とばりちくふう】
独文学者,評論家。本名信一郎。広島県生れ。東大独文科卒。1899年より高等師範学校教授。翌年《帝国文学》の編集員となり,ハウプトマンなどのドイツ文学論を発表する。とくにニーチェについては,坪内逍遥らとの論争の中で高山樗牛に賛同し,《ニイチエと二詩人》の刊行など盛んに論じたが,〈超人〉説が不敬思想だとして問題になり,1906年高師辞任。1910年二高に赴任後は,独和辞典の編纂などにつとめた。著書に《気焔録》《舌筆録》など。姉崎正治(嘲風),笹川臨風とともに明治三風の一人。
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登張竹風
とばりちくふう
(1873―1955)
独文学者、評論家。広島県生まれ。本名信一郎。東京帝国大学独文科卒業。1900年(明治33)東京高等師範学校在職中、『帝国文学』編集員となり、同誌上にニーチェを紹介したことから、坪内逍遙(しょうよう)らとの間にニーチェ論争を展開、一時評論に健筆を振るったが、超人説が不敬思想とみなされて、06年、高師を退職、しだいに文壇から遠ざかった。その後、旧制二高、満州建国大学などを歴任、独語教授に専念、『独和大辞典』を二度(1912、33)著した。著書に『ニーチェと二詩人』(1902)、『舌筆録』(1906)などの評論集、泉鏡花との共訳によるハウプトマン『沈鐘』(1908)、ニーチェと親鸞(しんらん)とを融合させた『如是経序品(にょぜきょうじょほん)』(1921)、随筆集『人間修行』(1934)、『遊戯三昧(ゆうげざんまい)』(1936)などがある。
[登張正實]
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登張竹風
とばりちくふう
[生]1873.10.2. 広島,江田島
[没]1955.1.6. 東京
ドイツ文学者,評論家。本名,信一郎。 1897年東京大学独文科卒業。東京高等師範学校,第二高等学校教授などを歴任。『フリイドリヒ・ニイチエを論ず』 (1901) ,『ニイチエの影響』 (02) でニーチェの全面的紹介を行い,高山樗牛と並ぶニーチェ主義者として個人主義思想に大きな影響を与えた。著書『如是説法ツアラトウストラー』 (35) ,随筆集『人間修行』 (34) ,『遊戯三昧』 (36) など。
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登張竹風 とばり-ちくふう
1873-1955 明治-昭和時代のドイツ文学者,評論家。
明治6年10月8日生まれ。東京高師教授。高山樗牛(ちょぎゅう)らとニーチェを紹介。明治39年その超人説が不敬思想とみなされ同校を辞職。のち二高,満州建国大教授。昭和30年1月6日死去。81歳。広島県出身。帝国大学卒。本名は信一郎。訳書に「如是説法ツァラトゥストラー」など。
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