番場宿(読み)ばんばしゆく

日本歴史地名大系 「番場宿」の解説

番場宿
ばんばしゆく

[現在地名]米原町番場

古代の東山道(中世の東海道、近世の中山道)が通り、鎌倉時代から宿の機能を果した交通の要地。「実暁記」に京都と鎌倉の間に設けられた六三宿の一としてみえる。江戸時代には中山道六七宿の一で、江戸日本橋から六二番目。六一番醒井さめがい宿から一里、次宿鳥居本とりいもと宿(現彦根市)へ一里一町、米原湊へ三〇町余(分間延絵図)。なお江戸時代の宿は後述のように旧来の地である上番場から北東下番場へ移っている。

〔中世〕

吾妻鏡」寛元四年(一二四六)七月二五日条に、帰洛途中の源頼経が「馬場」で一泊したことが記される。弘安三年(一二八〇)一一月一五日には飛鳥井雅有が「ばんばの宿」に泊っており(春のみやまち)、翌四年八月一七日の日付をもつ現近江八幡市覚永かくえい寺蔵旧正福しようふく鐘銘に「箕浦御庄馬場宿」、同七年一〇月一七日の日付をもつ蓮華れんげ寺の鐘銘にも同様の記載がある。元弘三年(一三三三)五月足利尊氏に攻められて京を追われた北条仲時一行は、京極導誉の率いる軍勢退路を断たれて当地で自害するが(→蓮華寺、京極家譜(徳源院文書)の同年四月の記事には、京極導誉が足利尊氏の先陣役を勤めるべく「番場駅」で会見したとあり、当地はすでに導誉の所領であると記されている。

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百科事典マイペディア 「番場宿」の意味・わかりやすい解説

番場宿【ばんばのしゅく】

近江国坂田郡にあった宿駅。現在の滋賀県米原(まいはら)町(現・米原市)にあたる。古代の東山道中世東海道近世中山(なかせん)道が通る交通の要所であった。1246年帰洛途次の源頼経(よりつね)が〈馬場〉で一泊,1280年には飛鳥井雅有が〈ばんばの宿〉に宿泊している。1333年5月9日,足利尊氏に攻められ関東に下る六波羅北方探題北条仲時らは,京極道誉(佐々木高氏)に退路を断たれて番場蓮華(れんげ)寺で主従あわせ430余人が自害に及んだ(《太平記》)。過去帳と墓石群が残されている。1479年当時,小野と番場の間の駄賃は70文,番場と醒井(さめがい)の間は100文であった。江戸時代の番場宿は米原湊との関連で北東に移転し,1843年頃の宿場の町並みは南北1町10間余,家数117軒,人数808人,本陣1軒・脇本陣1軒,人馬継立問屋場6ヵ所,問屋・年寄兼帯6人・庄屋2人・横目2人・帳付2人・馬指2人・人足指2人などの役人がおり,宿建人馬は50人・50疋で,旅籠は10軒を数えた(《宿村大概帳》)。

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改訂新版 世界大百科事典 「番場宿」の意味・わかりやすい解説

番場宿 (ばんばのしゅく)

中世,東山道の宿駅。現在の滋賀県米原市番場にあたる。1333年(元弘3)5月9日,足利尊氏に攻められ,関東に下る途中の六波羅北方探題北条仲時らは,五辻宮(亀山天皇皇子守良親王)を奉じた山賊・溢者(あぶれもの)などの軍勢にかこまれ,番場蓮華寺で主従432人が自害した。蓮華寺には北条仲時以下の過去帳と墓石群が残る。仲時が奉じた光厳天皇,後伏見・花園両上皇は捕らえられて京に送られ,供の日野資名らはここで出家した。また守良親王は,この追善のために多賀神社に多賀荘半分を寄進している。これより先,佐々木道誉は,鎌倉幕府軍として上洛途中の足利尊氏を番場宿に供応し,軍談,密約を交わしたという。また宿駅の往反については,摂家将軍九条頼経の帰洛(1246年7月,《吾妻鏡》),日野俊基の関東再下向(1331年7月,《太平記》)や一条兼良《藤川の記》などにみえる。
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事典・日本の観光資源 「番場宿」の解説

番場宿

(滋賀県米原市)
湖国百選 街道編」指定の観光名所。

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