田楽(芸能)(読み)でんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田楽(芸能)」の意味・わかりやすい解説

田楽(芸能)
でんがく

日本中世の代表的芸能。もとは田植にかかわる楽であったが、平安時代中期以後、一つの楽舞として成立した。田楽は、中国においては散楽(さんがく)の一種目とみられ、宋(そう)(960~1279)の時代には都でも盛行していた。それは日本に田楽が登場する時期とほぼ見合っている。散楽百戯(ひゃくぎ)といわれたように、散楽は雑伎(ぞうぎ)の集成であり、そのなかの田楽が日本に取り入れられ、日本風に展開を遂げたものとみられる。中国の田楽の楽器は日本の田楽にも通じ、また形は異なるが曲芸の高足(たかあし)もあった。

 日本における田楽史料の初見は、延喜(えんぎ)22年(922)4月7日、和泉(いずみ)国(大阪府)一宮の大鳥(おおとり)明神の祭礼に田楽が出たという同社の記録であるが、次の長保(ちょうほう)元年(999)4月10日、京都の松尾(まつお)神社の祭礼に山崎の津人(つにん)が田楽を行ったという『日本記略』の記録との間には隔たりがありすぎる。ただ両社とも4月初めの苗代にもみ種を播(ま)く種下(たねおろ)し祭のようにみられることが注目されるが、田楽の態様は不明である。次は『栄花物語』の1023年(治安3)に藤原道長(みちなが)家で催した遊興の田植の田楽と、同じころ『今昔物語』の近江(おうみ)(滋賀県)の矢馳郡司(やはせぐんじ)の御堂供養(みどうくよう)における田楽である。前者では田主(たあるじ)や昼飯持ちなどが演出され、田植を笛、腰鼓(こしつづみ)、簓(ささら)などで囃(はや)し、散楽者が動員されたようである。後者のほうは田植ではなく、田楽を御堂の供養に応用したのである。遊興の田植は宮廷でも催されていくが、田植の労働編成や統制に田楽を活用した大田植(おおたうえ)も、開発領主化する郡司層などによって進展した。一方、1096年(永長1)の祇園(ぎおん)祭を頂点とし、郷村から押し出した田楽団が京中を巻き込んで狂乱風流(ふりゅう)となり、白河院の催した田楽が楽舞化の契機となった。それは後の関白藤原忠実(ただざね)が教書(きょうしょ)で、「田楽は散楽を基本とし、風流を先にすべし」というように、散楽を基本にそれを整頓(せいとん)したものといえよう。やがて1129年(大治4)にはプロの田楽法師が登場し、平安末から鎌倉期にかけて楽舞化した田楽の大流行をみるが、猿楽能(さるがくのう)に圧倒されて室町期には衰退した。

 田植の楽としての田楽は、中世の開発領主や名主(みょうしゅ)たちの大田植の楽として近畿地方から遠国にまで普及したが、近世に入るとそのおおかたは失われた。中国地方に囃田、大田植として遺存するほか、伊勢(いせ)神宮などの御田植(みたうえ)にわずかながらそのおもかげをとどめている。

 また、楽舞化された田楽の舞人は、小鼓、銅拍子(どうびょうし)、編木(びんざさら)、腰鼓の左右8人ないし10人の編成で、散楽の曲芸の高足や刀玉(かたなだま)などをあわせて演じるものとなり、近代に入っても70余か所に遺存した。代表的なものは、岩手県の毛越寺(もうつうじ)、愛知県の鳳来寺(ほうらいじ)、和歌山県の熊野那智(なち)大社、島根県隠岐島前(おきどうぜん)の美田八幡宮(みだはちまんぐう)などの田楽である。

[新井恒易]

『本田安次著『田楽・風流』(1972・木耳社)』『新井恒易著『中世芸能の研究――田楽を中心として』全2巻(1972、1974・新読書社)』


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百科事典マイペディア 「田楽(芸能)」の意味・わかりやすい解説

田楽(芸能)【でんがく】

田園の行事から発生したとされる芸能で,数種ある。1.歌や笛・太鼓の囃子(はやし)で早乙女(さおとめ)が実際に田植をするもの。2.小正月のころ,その年の豊作を祈って刈入れまでの稲作の過程をまねて行う予祝の芸能。3.田楽躍(おどり)。高足や一足などの曲芸も演ずる田楽法師が,びんざさらを持ったり太鼓をかけたりして,笛の囃子につれてさまざまに陣形を変えて踊ったもの。4.田楽能。古い猿楽能の影響で作られ,田楽法師らが演じた能。
→関連項目延年神楽劇場ささら(楽器)散楽田遊竹馬

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