田付流(読み)たつけりゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田付流」の意味・わかりやすい解説

田付流
たつけりゅう

近世砲術の一流派。流祖は田付兵庫助景澄(ひょうごのすけかげすみ)、入道宗銕(そうてつ)(1556―1619)。田付氏は近江(おうみ)源氏・佐々木の庶流で、代々神崎(かんざき)郡田付村(滋賀県)に住したが、父景定(かげさだ)は1568年(永禄11)織田信長に責められて自害し、そのため景澄は、少年時代から苦労を重ねて砲術の修行に励み、1608年(慶長13)根本伝書『求中集(ぐちゅうしゅう)』2巻を撰(せん)して一家をなした。

 初め摂州三田(さんだ)(兵庫県)に住して、尼崎(あまがさき)の戸田氏鉄(うじかね)に仕えたが、1613年徳川家康に招かれ、大坂の両役(夏の陣・冬の陣)には、大筒(おおづつ)を放って功があり、下総(しもうさ)国(千葉県)香取(かとり)郡のうちに500石の采地(さいち)を賜り、幕府の御鉄炮方(おてっぽうがた)に採用され、砲術師範役を勤めた。

 2代四郎兵衛景治(かげはる)、3代景行(かげゆき)(円方(みちまさ))以下、代々よく先祖伝来の砲術を守り、幕末になってからの西洋砲術台頭をみるまで、井上外記(げき)家の井上流とともに、長年の間、強大な威勢を誇った。

[渡邉一郎]

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