朝日日本歴史人物事典 「田中久重(2代)」の解説
田中久重(2代)
生年:弘化3.9.1(1846.10.20)
明治時代の技術者,実業家。筑後国久留米(久留米市)の金工である金子荘右衛門の6男に生まれ,大吉という。初代田中久重が元治1(1864)年ごろに帰郷し久留米藩の事業にたずさわるようになると,門弟となり,やがてその才能を見込まれて養子となる。明治6(1873)年初代久重に従って上京した。翌年,電信寮製機所に勤務し,お雇い外国人技師の指導を受け電信機の製作に従事する。約3年にして外国人技師が帰国すると日本人技術者のみで機械の製作を進めた。14年初代の死去により久重を襲名,その翌年,東京芝浦に一大工場(田中製造所)を建設し,海軍の要請を受け当時のハイテク兵器ともいうべき水雷の製造に着手した。民間最初の近代機械工場のひとつである。19年から翌年にかけて海軍の角田秀松(のちに中将)に随行して欧米諸国を視察し,新しい機械を購入して帰国した。水雷のほかにも警視庁の非常報知機や石油採掘用の鑿井機械などを製作し,小型船舶の製造にも進出した。やがて魚雷の大型化,そして海軍工廠の充実によって海軍からの発注が打ち切られた。従って負債がかさみ,三井の経営に移り,26年芝浦製作所(東芝の前身)と改名された。しかしその金工から機械技術に至る技術的系譜は東京の機械工業のひとつの大きな源流をなしている。晩年は東京車両製造所を創設し鉄道用車両を製造し,また銀座の田中商会において内外の機械を取り扱った。<参考文献>『芝浦製作所六十五年史』,今津健治『からくり儀右衛門』
(今津健治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報