田上郷(読み)たがみごう

日本歴史地名大系 「田上郷」の解説

田上郷
たがみごう

田上町田上新たがみしん町・田上本たがみほん町を遺称地とする。戦国期には金浦かなうらを含むので、近世の金浦郷、上記三町付近の浅野川中・上流両岸沿い一帯に相当する地域に比定する説がある。「三宮古記」暦応二年(一三三九)九月一四日の評定にかかわるとみられる記事に「五段四段味智、一段田上、一段下林・田上免田寄替」などと頻出し、同書康永三年(一三四四)頃の記事に「一、神主半分納物 田上糸代絹」「一、田上成蘇 六斗」とみえ、白山宮の神領であった。

貞和三年(一三四七)七月七日の足利直義下知状(県立歴史博物館蔵)によれば、金子大蔵左衛門尉親定に「加賀国田上郷一方地頭職」が安堵されている。下知状によれば、当地頭職は正応元年(一二八八)九月二日の関東下文(鎌倉将軍惟康親王家政所下文)や嘉元四年(一三〇六)八月一八日の外題安堵、文保元年(一三一七)一二月一日の譲状などによって安堵され続けてきたものだが、康永三年一〇月から始まった越中の前守護井上(普門)俊清との合戦に親定が参陣しなかったため、加賀の守護代額斎藤(富樫)用家が親定の所領を没収して兵粮料所に充ててしまった。規定は建武二年(一三三五)以来の忠節を主張し、俊清との合戦の時は病中の自分に代わって参陣した子の高親・親安らが戦功をあげたことは用家が証判を加えた軍忠状に明白で、用家の行為は「押領」にほかならないと抗議、直義も親定の領有権を認めた。

貞和五年六月二九日の室町幕府引付頭人奉書(真田文書)によれば、直義側近の上杉重能は親定の所領「田上郷一方」のうちにまだ用家が「渡残」し押領を継続している個所があるとして、福益孫三郎とともに親定の所領回復を完遂するよう羽咋はくい得田とくだ(現志賀町)の地頭得田素章(章真)に指示した。

田上郷
たのかみごう

和名抄」高山寺本は「多乃加美」と読み、同書名博本は「タノカミ」の訓を付す。平城宮跡出土木簡に「(表)阿波国板野郡田上郷(進)」「(裏)乎奈西」とある。また当郷の戸籍として延喜二年(九〇二)の板野郡田上郷戸籍(蜂須賀家文書)があり(国指定重要文化財)、前欠ではあるが八郷戸主・三三氏族・四四〇名が記載されている。このうち男は七五口、課口年齢の男は四〇口、残りの四〇〇名余りは女・老人・子供となっており、このことから偽籍とみなされてきた。ただ性別・年齢には疑点があるものの、存在しなかった人物を勝手に記載したのではなく、九世紀のいずれかに存在した人物が記載されていることも明らかにされている。

当郷について「阿府志」「阿波志」ともに「此地未詳」、あるいはその地の比定を行っていない。

田上郷
たかみごう

「和名抄」高山寺本には記載されず、東急本・刊本に「多加美」の訓がある。現総社市山田やまだ新本しんぽん地区に比定されている。新本川流域西端にあたる尾根上に三基の前方後円墳と一基の円墳からなる砂子山さごやま古墳群があり、一号墳は最大で全長五〇メートルの前方後円墳である。

田上郷
たがみごう

「和名抄」所載の郷。諸本に「多加美」と訓ずる。遺称地は現金沢市南東部、浅野川右岸の沖積地や河岸段丘上に位置する田上本たがみほん町・田上町。郷域は、その周辺に限定する説(日本地理志料・加賀志徴)、それらの地点から浅野川の下流域に延びて現金沢市街中心部まで広がっていたとする説がある(大日本地名辞書・加能郷土辞彙)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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