生野区(読み)イクノク

デジタル大辞泉 「生野区」の意味・読み・例文・類語

いくの‐く【生野区】

生野

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「生野区」の解説

生野区
いくのく

面積:八・二四平方キロ

市域東部に位置し、東は東大阪市、北は東成ひがしなり区、西は天王寺区、南は東住吉区・平野区と接する。南西部には南方の堺方面から続く我孫子あびこ台地が延び、やや高地をなすが、北東部および東部にかけては河内の平野部に続く平坦地が広がり、中央西寄りを平野川が、東寄りを同川分水路が北流する。昭和二五年(一九五〇)以降の平野川直線化工事までは、同川は現流路の西側を流れていた。東成区との境を近鉄奈良線・大阪線、天王寺区との境を国鉄大阪環状線、東端近くを府主要地方道大阪内環状線が通る。区名は明治二二年(一八八九)成立の生野村の名称を継承したものだが、生野の称は、かつて舎利尊勝しやりそんしよう寺付近に住んでいたと伝える生野長者に由来するという。

〔原始―中世〕

原始には、南西部の高台をのぞく大半は入江、あるいは沼沢地の景観を呈していたと思われる。その後、平野川水系などを通じて運ばれる土砂によって徐々に陸地化が進行していったとみられるが、南東部には、「日本書紀」仁徳天皇条にみえる横野よこの堤が築かれたといわれ、片江かたえはもと浜江はまえと称し、玉造たまつくり江の一部であったと伝える。猪飼野いかいのは同書同天皇条の猪甘津いかいのつにあたるとされ、この称もまた海辺にちなむといわれる。一方、この猪飼野から南西部の高台にかけては、仁徳天皇にちなむ伝承をもつ神社や古跡が残り、御勝山おかちやま古墳(前方後円墳)もあって比較的早くから開けていたと思われる。舎利尊勝寺には聖徳太子にちなむ伝承があり、また奈良時代になると国分こくぶ(現天王寺区)の西部に国分寺が創建されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「生野区」の意味・わかりやすい解説

生野〔区〕
いくの

大阪市東部の区。東大阪市に接する。 1943年東成 (ひがしなり) 区と住吉区から分離して新設。 55年巽 (たつみ) 町を編入。 JR大阪環状線 (西) ,関西本線 (南) , 近畿日本鉄道奈良線 (北) にほぼ囲まれる。西部から南部にかけては商業,住宅の混合地区。東部の新平野川付近は大阪東部工業地域の一部をなし,各種金属加工をはじめ合成樹脂加工,メリヤス,印刷,レンズなどの町工場が多い。特に田島町を中心とする眼鏡レンズ製造は江戸時代末期からの伝統産業として知られる。面積 8.37km2。人口 12万7309(2020)。

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