瓜生保(読み)ウリュウタモツ

デジタル大辞泉 「瓜生保」の意味・読み・例文・類語

うりゅう‐たもつ〔うりふ‐〕【瓜生保】

[?~1337]南北朝時代武将越前の人。初め新田義貞に従い、のち足利尊氏あしかがたかうじ方に味方し、弟たちが義貞のおい脇屋義治わきやよしはるを奉じて挙兵するとこれに参加金崎かねがさき救援に向かう途中戦死

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精選版 日本国語大辞典 「瓜生保」の意味・読み・例文・類語

うりゅう‐たもつ【瓜生保】

南北朝時代の武将。越前南条の人。越前杣山(そまやま)城主。はじめ足利尊氏方に味方したが、のち、転じて脇崎義治を奉じて斯波高経らと抗戦今川頼貞と戦って討死。建武四年(一三三七)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「瓜生保」の意味・わかりやすい解説

瓜生保
うりゅうたもつ
(?―1337)

南北朝時代の武将。嵯峨(さが)源氏の流れといわれ、判官と称し越前(えちぜん)(福井県)に住した。1335年(建武2)中先代(なかせんだい)の乱に際し、北条一族の名越時兼(なごえときかね)が北国で挙兵すると、保らは加賀大聖寺(だいしょうじ)にこれを攻めて滅ぼした。36年(延元1・建武3)保は斯波高経(しばたかつね)らに属し、新田義貞(にったよしさだ)を越前金ヶ崎(かねがさき)城に攻めた。しかし保の3人の弟(重(しげし)、照(てらす)、僧義鑑)が義貞の甥(おい)の脇屋義治(わきやよしはる)を奉じ杣山(そまやま)城に挙兵しようとしているのを聞くとこれに合流し、逆に高経軍を敗退させた。37年(延元2・建武4)金ヶ崎城の救援に向かったが途中、今川頼貞(よりさだ)と戦い、弟の義鑑とともに戦死した。

小要 博]

『千々和実編『新田氏根本史料』(1974・国書刊行会)』『『日本古典文学大系 太平記 第二巻』(1961・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「瓜生保」の意味・わかりやすい解説

瓜生保
うりゅうたもつ

[生]?
[没]延元2=建武4(1337)
南北朝時代の武将。越前南条の住人。建武2 (1335) 年,建武政権にそむいた名越時兼を加賀大聖寺に攻め自殺させた。同年,新田義貞の挙兵に応じたが,翌年,足利尊氏方につき,越前金崎城に義貞を攻めた。しかし,弟の義鑑,照,重ら3人が,義貞の甥脇屋義治に従って杣山城に挙兵したので,保も足利の陣を逃れて義治の陣営に参じ,足利方の高師泰,斯波高経らを破った。翌延元2=建武4 (37) 年金崎城の義貞救援に向い,途中,高師泰,今川頼貞と戦って戦死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「瓜生保」の解説

瓜生保 うりゅう-たもつ

?-1337 鎌倉-南北朝時代の武将。
越前(えちぜん)(福井県)杣山(そまやま)城主。建武(けんむ)3=延元元年足利方の斯波高経(しば-たかつね)にしたがい,越前金ケ崎城の新田義貞を攻める。弟3人が義貞の甥(おい)脇屋義治をたてて挙兵すると,呼応して足利方にそむく。建武4=延元2年1月12日金ケ崎城の義貞救援にいく途中,弟の義鑑(ぎかん)とともに今川頼貞に討たれた。通称は判官。

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