琳阿弥(読み)りんあみ

改訂新版 世界大百科事典 「琳阿弥」の意味・わかりやすい解説

琳阿弥 (りんあみ)

南北朝末期の地下(じげ)の遁世者。生没年不詳。通称玉林(たまりん)といい足利義満に仕えた。連歌和歌に堪能であり,能の独立の謡物(うたいもの)である曲舞(くせまい)謡(曲舞)の作詞をも手がけた。すなわち,連歌師としては救済(ぐさい)門人の一人に数えられ(《古今連談集》等),歌人としての活動には,1375年(天授1・永和1)から翌年にかけて,時衆(時宗)の四条道場金蓮寺の4代住職浄阿の主催した月並歌会に,同じく救済門下の眼阿,相阿らの地下連歌師とともに参会したことが知られる(《熱田本日本書紀紙背和歌》)。他方,1394年(応永1)には足利義満の寵臣(ちようしん)で山城国守護職結城満藤とともに,諸国に大規模な荘園を経営していた東寺との連絡役をつとめ,97年には東寺に土地と家屋とを寄進するなど,東寺との縁が深かったようである。こうした琳阿弥の多能さは,同時代の地下緇流(しりゆう)の文化人の多くに共通するところであった。

 琳阿弥の場合,その多彩な事跡の中で最も注目されるのが,曲舞謡(くせまいうたい)の作詞である。《東国下りの曲舞》《西国下りの曲舞》の両作がそれで,とくに前者は,琳阿弥が一時足利義満の不興をこうむり沈倫していたころに作詞し,南阿弥(なあみ)が作曲して,当時藤若(ふじわか)と称していた少年時代の世阿弥に義満の御前で謡わしめ,ために勘気を解かれたことで有名である。後者はその姉妹作のごときものとして後に書かれた観阿弥作曲の謡で,文体は前者よりさらに優れたものとなっている。この2作品はいずれも従来の曲舞謡には見られない長大な内容を有し,故事本文をちりばめた華麗な修辞技法を駆使している。それまでの能の詞章作風に比して,その文学的香気という点で格段の風格を備え,以後の能に用いられる修辞法のほとんどすべてが,この両作品にすでに存在している。つまり,世阿弥による謡曲文体の完成の前提となったのが琳阿弥の曲舞謡の作風であり,能の作詞が高度な文学的作業となるためには,琳阿弥に代表されるような,地下の連歌師,歌人たちの作詞への参加が,必要不可欠であったことが推察される。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「琳阿弥」の解説

琳阿弥 りんあみ

?-? 南北朝-室町時代の連歌師,曲舞(くせまい)作者。
足利義満につかえ,東寺と幕府の仲介役などもはたす。曲舞の作品に「東国下(くだり)」「西国下」があり,その作風は世阿弥の能の完成に影響をあたえたといわれる。連歌は救済(ぐさい)門下。通称は玉林(たまりん)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の琳阿弥の言及

【世阿弥】より

…世阿弥の可憐さが5,6歳年長だった義満を魅了したらしい。義満の世阿弥寵愛は尋常でなく,彼の勘気にふれて東国を流浪していた連歌師の琳阿弥は,世阿弥に自作の謡(うたい)を義満の御前で謡ってもらって勘気を許されている。足利武将らも将軍の機嫌をとるために世阿弥を引き立てたし,北朝公家の代表格の二条良基も13歳の世阿弥に〈藤若〉の名を与え,自邸の連歌会に藤若を加えてその句を激賞したりしている。…

【南阿弥】より

…彼はこの後も観阿弥らにしばしば芸事上の助言を与え,時にはみずから作曲するまでに親炙(しんしや)し,猿楽能,田楽の道の者から〈節ノ上手〉と称揚されるほどであったという。すなわち,義満近侍の遁世者琳阿弥(りんあみ)作詞の《東国下りの曲舞》の作曲を担当し,藤若(ふじわか)と名のって義満の愛顧を得ていた幼少の世阿弥にこれを御前で謡わしめて,琳阿弥に対する義満の勘当を解かしめたこと,《地獄の曲舞》を作曲したことなどが知られる(以上,《申楽談儀(さるがくだんぎ)》ほか)。 この南阿弥をモデルとするのが,御伽草子の《猿源氏草紙》に登場する〈海老名のな阿弥〉である。…

※「琳阿弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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