琉球使節(読み)りゅうきゅうしせつ

改訂新版 世界大百科事典 「琉球使節」の意味・わかりやすい解説

琉球使節 (りゅうきゅうしせつ)

江戸時代に琉球国王襲封将軍の代替りに際し,江戸に派遣した使節。1634年(寛永11)薩摩島津氏琉球国王に徳川将軍の代替りを祝う慶賀使を派遣させたのに始まる。同年琉球が中国との朝貢・冊封関係を維持しつつ島津氏の知行に加増され,日本の幕藩体制への組入れが決定したのにともなう服属儀礼である。44年(正保1)には国王が襲封を将軍に感謝する謝恩使が派遣され,以後,慶賀使・謝恩使の江戸上りが恒例となった。1710年(宝永7)幕府は東アジアにおける日本将軍の対外的権威をいや増す国家的儀礼としてその政治的意義を強調した。同時に,琉球使を引き連れた島津氏が官位昇進する先例を開き,同氏の琉球支配を補強した。一方,琉球使は島津氏の命により中国風の官名・風俗を強制された。48年(寛延1)以降使節の渡来年度に琉球物刊本の出版ブームが起こり,のちに日本民衆の間に琉球に対する差別観念が醸成されていく基となった。1850年(嘉永3)に至る間計18回実行された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「琉球使節」の意味・わかりやすい解説

琉球使節【りゅうきゅうしせつ】

江戸時代に琉球国王が幕府へ派遣した使節。琉球薩摩侵略琉球征服)に屈した結果,義務づけられたもので,将軍代替りの時に慶賀使(けいがし),新国王即位の時には謝恩使(しゃおんし)を派遣。1634年の慶賀使にはじまり,1850年まで両使合わせて20回派遣。18世紀初頭には使節の江戸上りが島津氏の指示で中国風の行列に仕立てられ,徳川将軍と島津氏の〈異国〉支配を内外に誇示する有効な外交儀礼と位置づけられた。
→関連項目京街道鎖国

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「琉球使節」の意味・わかりやすい解説

琉球使節
りゅうきゅうしせつ

(1)中国皇帝へ派遣された琉球国中山王(ちゅうざんおう)の朝貢使節と、(2)徳川幕府へ派遣された使節の総称。前者は明清時代(14世紀後半から19世紀後半)に北京へ派遣された。後者は「江戸立」とよばれ、薩摩の琉球侵攻後の1634年(寛永11)から幕末の1850年(嘉永3)までの間に18回行われた。琉球国王即位の際に派遣される謝恩使(しゃおんし)と、徳川将軍襲職の際に派遣される慶賀使(けいがし)とがある。北京への朝貢使節は紫金城で朝貢儀式に参加したのち、福州の琉球館(りゅうきゅうかん)で交易に従事した。琉球から福州向けに昆布・フカヒレ・ナマコ・鰹節など海産物を輸出する一方、中国から輸入した生糸・絹織物・漢方薬材などを、薩摩藩を通じて日本市場に転売した。交易資本である渡唐銀(ととうぎん)は、その一部を薩摩藩が出資した。

[真栄平房昭]

『高良倉吉著『琉球王国』(1993・岩波新書)』『高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』(1994・河出書房新社)』『安里進ほか著『沖縄県の歴史』(2004・山川出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「琉球使節」の解説

琉球使節
りゅうきゅうしせつ

江戸時代,琉球国王が徳川将軍に送った外交使節。将軍代替りを祝う慶賀使と,国王が即位を謝す謝恩使があった。1634年(寛永11)に始まり,1850年(嘉永3)まで18回実施。初回は京都までで,次回から江戸に赴いた(江戸参府)。1710年(宝永7)将軍の威光を高める外交儀礼として位置づけられるとともに,使節一行に中国風の風俗が強制された。1850年以後も2回慶賀使が計画されたが,国事多端を理由に中止。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android