日本大百科全書(ニッポニカ) 「玩具」の意味・わかりやすい解説
玩具
がんぐ
toy
おもちゃ。子供の遊び道具。現在では普通商品化されたものをさすが、古くは手作りのものが多く用いられた。これには、子供自身がつくって遊ぶものと、大人がつくって子供に与えるものとがあった。
[斎藤良輔]
概観
玩具発生の順序は三つに分けられる。まず石や植物などの自然物をそのまま利用して遊び道具とした。この自然物玩具は、もっとも古くから伝えられた原始的な形のもので、まだ商品化されずにすべて手作りであった時代の姿を示している。自然物を玩具化したものなので、季節的な制約を受けることが多い。次は家庭内の生活用具を遊び道具とする段階である。家具、母親の裁縫用具、あるいは台所の食器類などで遊ぶことも、広い意味で玩具遊びの一つとなる。こうした仮用遊びは、大人たちを困らせることにもなるので、かつて関西では玩具を「悪さもの」ともよんだ。子供のためにとくに専用のおもちゃをつくって与えるようになったのは、生活文化が進み、児童観が芽生えてくることと関係がある。さらに、買って与える商品玩具の登場であるが、金銭で子供にそれを買って与えるようになったのは、一般には比較的近世になってからのことで、それもほとんど都会地に限られていた。明治時代に入ったころでも、玩具の販売は、都会においても、社寺の祭礼、縁日の露店や行商人の手によって行われ、東京などでも玩具専門の常店はきわめて少なかった。それが、社会の経済成長とともに、商品玩具が目覚ましく進出してきて、大きな分野を占めるようになった。
商品玩具には、デパートの玩具売場に並んでいる高級玩具類と、駄菓子屋などで売っている比較的小形で安価な製品とがある。前者を大物玩具、後者を小物玩具という。このほか美術的な鑑賞用のもの、成人向きのものなどを含めて、玩具の種類、分野は広く多岐にわたり、その性格もまた多種多様な複雑さをもっている。
[斎藤良輔]
ことばの移り変わり
「おもちゃ」ということばは、「手に持って遊ぶもの」という意味から生まれた。平安時代には、「もて(もち)あそびもの」、または略して「あそびもの」(『源氏物語』)とよび、これが「おもちゃ」の語源となった。室町時代には、御所や仙洞(せんとう)御所の女房たちが使った女房詞(にょうぼうことば)で「もちあそび」の語が「おもちゃ」ということばになったという。現在も関西方面に「もちゃそび」ということばがあるのは、その名残(なごり)を示すものである。江戸時代には、「おもちあそび」あるいは「てあそび」が話しことばとして用いられ、漢字では「翫弄(がんろう)」(『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』1830刊)、「弄物(ろうぶつ)」(『近世風俗志』1853刊)などと書いた。また「翫物」の字も用いた。1762年(宝暦12)摂州(大阪府)住吉(すみよし)神社に、京・大坂・江戸三府の手遊雛人形(てあそびひなにんぎょう)問屋が寄進した常夜灯2基の台名に、「翫物商」と刻んであるのは、当時の玩具業者のことである。
明治時代に入ると「翫物」が「玩物」となり、玩具雛人形商品を扱った江戸の卸業者も、「東京玩物雛人形問屋」と名称が変わり、さらに1903年(明治36)には同問屋組合の機関誌名が『東京雛玩具商報』となり、「玩物」から「玩具」となった。翌年には国定教科書が全国の小学校で一斉に使用を開始、それに伴う国字統一運動の影響もあって、学校用語の「おもちゃ」「玩具」が一般的に用いられるようになり、日常語化された。ときには「玩具」と書いて「おもちゃ」と振り仮名をつける併用も、明治末期からみられた。昭和期に入り、第二次世界大戦中には戦時体制強化策から、「玩具」の健全性を強調するという意味で、「遊具」という新名称がこれにかわって提唱されたときもあった。
[斎藤良輔]
歴史
広い意味での玩具は、人間の歴史が始まったときから存在したに違いないが、紀元前2000年ごろの古代エジプトの遺物や古代ギリシア・ローマ時代にも、ゲーム類、こま、まり、木馬、紐(ひも)で引くと動く人形や動物の玩具、ままごと遊び、着せ替え人形式のものなど、現在に共通する種類のものが見受けられ、玩具の歴史の古いことが知られる。人形は最初は宗教的な偶像から出発したが、時代とともにしだいに信仰上の制約を離れて、子供の愛玩物となった。ヨーロッパでは、中世に騎士の土人形やガラス製の玩具が登場しているが、14世紀から16世紀にかけてのルネサンス時代から、ドイツのニュルンベルクなどの諸市に、工匠ギルド(同業組合)がつくられ、商品としての玩具製作が本格化した。木製、ろう細工、パルプ(練り物)製、紙の張り子、金属製のものなど、材料や着想も新しいものが次々に生み出されて、ヨーロッパ各地に出回るようになり、しだいに発達した。なかでも16世紀に始まる「人形の家」は、各国の貴族家庭などに迎えられて流行した。
18世紀の中ごろからは、クリスマス・ツリーに飾りとして玩具をつるす風習が生まれ、玩具遊びも盛んになった。子供たちの間では、切抜き絵紙を細工した戦争ごっこ遊びや着せ替え人形も出現した。また18世紀後半にはニュルンベルクで錫(すず)製の兵隊人形が売り出されて、ヨーロッパ各国に大流行した。18世紀末から19世紀にかけては、ブリキ板をプレスして型をつくった金属玩具の大量生産が開発され、ぜんまい仕掛けの動きのある人形や、乗り物玩具などが現れた。さらに蒸気力、磁気応用の科学玩具や、セルロイド玩具の登場などで、近代玩具への新しい段階を迎えた。1851年ロンドンの大博覧会にも、こうした傾向を反映して、科学知識を育てる理工玩具が数多く出品されて人気をよんだ。この種の機械化玩具のなかには、発明特許を目ざす模型試作品や、科学研究の参考品として役だつような実物そっくりの精巧な作品も現れてきた。
また、これに並行して、このころから教育玩具も登場した。ドイツのフレーベルが、幼児教育のための玩具を考案したのをはじめ、児童の心身の成長に必要なものとしての玩具の重要性が認識されてきている。
最近は資材や製作技術などの向上、発達によって近代産業化され、玩具の需要、生産もともに目覚ましい発展ぶりを示している。世界的な新しい傾向としては、人形玩具作品の小形実物化、機械化があげられる。「おもちゃに国境はない」といわれ、各国に共通する作品も多くみられる。その反面、底流として、それぞれの民族文化の伝統を生かした、一種の民族玩具の台頭も感じられる。
[斎藤良輔]
日本の玩具
有史以前の縄文文化時代の粘土製の人形(土偶)や土面、土製の動物類などが発掘され、なかには玩具の一種と考えられるものもあるが、現代にまで伝わっている玩具の祖型には、古く中国大陸から渡来したものが多い。たとえば「こま」は、奈良時代に唐(中国)から高麗(こま)(高句麗(こうくり))を経て移入されたので、この名がついた。平安時代の承平(じょうへい)年間(931~938)の『和名抄(わみょうしょう)』に「古末都玖利(こまつくり)」と記されているように、その名称がそのまま渡来系統を示している。平安時代から江戸時代にまで行われた「打毬(だきゅう)」(現代のポロに似た球戯)も、やはり古代中国からもたらされ、貴族階級の遊びから、平安時代以後は男の子の戸外遊戯の「毬打(ぎっちょう)」となって流行した。「双六(すごろく)」は朝鮮語の「サブロク」から連想されるように、6世紀ごろ朝鮮半島を経て伝来した。さらに「蹴鞠(けまり)」は唐朝から直接伝わり、後代の女の子の遊び道具「手鞠(てまり)」はこれから変化して生まれた。「凧(たこ)」も平安時代すでに登場していて、中国風に「紙老鴟(しろうし)」(紙製の鳶(とび))とよばれ、宮中の技芸の一種として扱われ、また農作物の吉凶を占う神事などに用いられた。それが江戸時代に子供の遊び道具となった。室町時代には、中国から伝えられた羽根突き遊びが、日本的に消化されてやがて羽子板の形となり、正月の子供遊びに用いられるようになった。張り子の製作技法も当時同じく渡来して、「起きあがり小法師(こぼし)」など日本風なくふうを加えた玩具が生まれた。江戸時代に入ると、これらの遊びはいずれも日本独特の発達、完成をみせ、数多くの種類が出そろった。江戸、大坂などの大都会には商品玩具がにぎやかに登場してきたが、全国各地にも、城下町などを中心に自給自足的な作品が出現して、現在郷土玩具とよばれる古い玩具のほとんどがこの時代にできあがった。
これらの日本玩具の特徴は、信仰的な習俗や季節的な年中行事などに結び付いたものが多い。その中核となったのが「雛人形(ひなにんぎょう)」である。人形は、日本でも最初は信仰的な立場からつくられ、人体の穢(けがれ)、災厄を祓(はら)う「人形(ひとがた)」がその始まりで、紙や植物製の人形がこれに用いられた。平安時代には、また小さな紙人形を「ひひな」(ひいな)とよんで、一種の人形遊びが行われたことは『枕草子(まくらのそうし)』や『源氏物語』などの古典にもみえている。これが信仰的な習俗と重なり、室町時代から男女一対(つい)の雛人形を3月上巳(じょうし)(最初の巳(み)の日)に飾るようになった。江戸時代にはこれが3月3日の雛祭となって広く普及、発展し、内裏雛(だいりびな)、三人官女、五人囃子(ばやし)、随身以下、雛段に飾る浮世人形など、華麗な作品が続いて現れた。さらに端午の節供など、季節ごとの年中行事が盛んに行われるようになり、これに付随して縁起物などを主体とする玩具作りも発達した。これらの玩具は、当時の民間信仰に根ざした子供の虫除(よ)け、子育て、厄除け、開運、商売繁盛、豊作祈願など、あらゆる縁起に結び付けられたものも多く、神社や寺院の祭礼、縁日などの土産玩具として売られた。現在でも伝承的な郷土玩具となって全国各地に残っている。
明治時代に入ると、1872年(明治5)ごろからブリキ製の金属玩具がまず海外から紹介され、1874年ごろにはブリキ製のがらがらなど国産品が現れた。続いてゴムまり、ぜんまい仕掛けの汽車玩具、セルロイド人形など、欧米風の近代玩具が輸入され、国内でも生産されるようになった。日露戦争以後は目覚ましい躍進を遂げ、これに伴って明治末期から大正時代にかけては、生活様式の変移、時代の風潮から、玩具の教育性、文化財的価値が認められてきて、子供博覧会の開催、童謡運動の興隆などとともに玩具教育の機運も盛んになった。
昭和時代に入ると、玩具は日本の代表的な雑貨商品として海外市場に進出する。またアメリカと日本の子供たちの間で行った日米親善人形使節の人形交歓(1927)や、帝展第四部に人形を出品、入選(1936)して芸術的価値が認められたのをはじめ、各種の人形玩具展が開催されるなど、その社会的地位もしだいに向上してきた。しかし、明治中期までは「小物玩具」とよばれる小形で粗雑、安価なものが優位を占めていた。それらといっしょに売られる駄菓子類のなかには、「食品玩具」として一種のおもちゃ扱いにされているものもあった。たとえば、新粉(しんこ)細工、飴(あめ)細工のツルやカメなどの動物類とか、第二次世界大戦後にみかけられた風船ガムが子供たちに親しまれたが、玩具商品が近代化されてくるにつれて、この種のものは後退の傾向にある。
第二次世界大戦後は、戦災による打撃で、玩具産業は明治初期の状態に逆戻りしてしまったが、その壊滅のなかからふたたび驚異的な復興ぶりを示した。フリクション玩具(1948)、無線操縦のラジオコントロール・バス(1955)、笛を吹くと方向を変える音波操縦自動車(1958)、プラスチックモデル玩具の国産化(1958)、黒人のビニル人形「だっこちゃん」(1960)など、その優れた着想と新しい製作技術の開発によって、国際的な流行玩具を生み出した。またこのころから、テレビ番組や漫画の人気者を主人公にしたマスコミ玩具(キャラクターもの)が花形商品となってきて、怪獣玩具などが子供たちに迎えられた。さらに昭和40年代後半からはオセロゲームなどのゲームものが流行、昭和50年代以降はテレビゲームなどエレクトロニクス玩具が人気を集めている。玩具作品が多様化、高級化するにしたがって、子供中心の時代から移って愛好層が拡大し、成人層を相手とする玩具も数多く登場してきている。その反面、子供たちの間では「おもちゃ離れ」現象もみられ、子供の玩具愛好層の重点が低年齢化されてきている。
[斎藤良輔]
玩具の教育性
玩具が、子供の心身の糧として、人間形成のうえに必要なものであることは、一般に認識されてきている。幼稚園を創設したドイツの教育家フリードリヒ・フレーベルは、1836年、幼児教育の実践遊具として「恩物」(天からの賜り物の意)という保育玩具を創案した。またイタリアの女流教育家マリア・モンテッソリは、児童の感覚教育の一方法として、はめ絵式のものなどの教育玩具を考案した。日本でも明治時代以後は、児童教育、心理学者などによって玩具が児童教育に役だつことが考究され、これまで「悪さ道具」などと軽視されがちであった玩具の教育的価値が理解されてきた。たとえば、明治から大正時代に、児童心理学者高島平三郎が、玩具の効用を分類して、知力的、訓練的、審美的、体育的、感覚的、記憶的、想像的、推理的、味覚・触覚(筋覚)・聴覚・視覚的なものを養うことに役だつとしている。同じく関寛之(せきひろゆき)は、人形玩具224種を例に、それらが児童の想像力、推理力、記憶力、思考力、観察力、意志力または美的感情、同情心を養うことを指摘した。玩具はすべて児童の心身の成長に役だつものといえるが、教育性を強調して、それを目的につくられ教材化したものがある。理工玩具、学習玩具もこれに含まれ、教育玩具ともよばれている。第二次世界大戦後は乳幼児教育の向上、PTAの出現などでこの教育玩具も発達したが、玩具自体の娯楽性と教育性との合理的な融合に、今後の課題がある。
[斎藤良輔]
種類
日本の玩具は、古く中国大陸から伝来したもの、郷土玩具のように全国各地で生まれたもの、自然物などを手作りとしたもの、さらに明治以後発達した近代玩具など多種多様である。材料、用途などから分類すると約4000種にも上るといわれ、世界有数の豊かさである。明治時代までは木、土、藁(わら)、紙などを材料にしていたが、1773年(安永2)刊の玩具絵本『江都二色(えどにしき)』には、当時の玩具88種が掲載されていて、江戸時代すでに数多くの遊び道具に恵まれていたことがわかる。
現在多く用いられている主要資材別に分類すると、金属製(ブリキ乗り物玩具など)、プラスチック製(ままごと道具など)、木製(積み木など)、布製(縫いぐるみ動物など)、ゴム製(まりなど)、ガラス製(ビー玉など)、陶磁製(装飾人形など)、薬品応用(花火など)、竹製(竹とんぼなど)、貝製(おはじきなど)、石や骨や角(つの)製(さいころなど)などのほかに、以上の各種材料を併用した総合玩具(玩具ハーモニカなど)があげられる。
また用途の面からの分類では、人形(着せ替え人形など)、育児玩具(起きあがりなど)、音響玩具(太鼓など)、模倣玩具(電車遊びなど)、乗り物玩具(自動車など)、ゲーム玩具(かるた、テレビゲームなど)、手芸玩具(千代紙など)、動物玩具(シールのクマなど)、運動玩具(羽子板など)、知能玩具(知恵の輪など)、学習玩具(文字遊びなど)、科学玩具(日光写真など)、趣味玩具(郷土玩具など)、節供玩具(雛人形など)となる。なお最近は、ファンシーもの(文具、小物品)、ホビーもの(手作り遊び)なども加わっている。
[斎藤良輔]
玩具産業
日本の玩具産業は、江戸中期から問屋制度のもとに発達し、明治時代以降は欧米式玩具を安い労賃で生産、日露戦争後は玩具工業先進国を追って海外に進出し、新興産業の一つにまで成長した。ことに第一次世界大戦後は、ドイツ、オーストリアなど先進国の後退にかわって躍進を遂げ、1937年(昭和12)の輸出額は4200万円、貿易額では陶磁器、鉄製品、綿織物に次いで第4位となった。
第二次世界大戦中は、海外市場の喪失、生産資材の欠乏と統制、戦災による業者の離散などによって転落したが、戦後ふたたび旧に倍する復活ぶりを示し、1961年(昭和36)には玩具輸出総額286億円、世界第1位の成績をみせた。翌1962年から日本玩具国際見本市(1982年から「東京おもちゃショー」)を年々開催して世界のバイヤーを集め、玩具王国の地位を占めている。1971年には安全玩具(STマーク)の自主規制に乗り出し、玩具業界が良心的な玩具商品の製作販売を実施。翌1972年、玩具輸出額で香港(ホンコン)に首位を譲ったが、1998年の生産額は7523億円に達している。東京、大阪、名古屋が三大生産地で、最近、国内需要の面が増大している。
[斎藤良輔]
『斎藤良輔編『日本人形玩具辞典』(1968・東京堂出版)』▽『加古里子著『おもちゃの旅』(1977・ほるぷ新書)』▽『和久洋三著『おもちゃから童具へ』(1978・玉川大学出版部)』▽『多田信作・多田千尋著『世界の玩具事典』(1989・岩崎美術社)』