日本大百科全書(ニッポニカ) 「王政復古(日本)」の意味・わかりやすい解説
王政復古(日本)
おうせいふっこ
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿(くぎょう)で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸(けいがい)化され、内外政治の外にあった。しかし、長く続いてきた天皇の伝統的な権威は根強く、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の地位も天皇からの任命によって成り立っていた。本来天皇に帰属する天下統治の大権が将軍に「委任」されているという考え方は、儒学では王者と覇者を区別する「王覇論(おうはろん)」、国学では君と臣の分によって説明する「名分論(めいぶんろん)」によって合理化され、幕府政権を擁護していた。しかし19世紀後半、国内諸情勢の変化に加えて、諸外国の圧力により幕府の支配が揺らぎ始めたとき、外国に対応する日本の国家的統一、つまり、支配者は朝廷(天皇)なのか幕府(将軍)なのか、さらには、朝幕関係のあり方、幕府政権の立て直しなどの具体的な政治課題が登場してきた。1846年(弘化3)2月、仁孝天皇(にんこうてんのう)の後を継いだ孝明天皇(こうめいてんのう)は、相次ぐ外国艦船の来航と通商要求に対して、海防の強化を求める沙汰書(さたしょ)を幕府に与え、それ以後も「攘夷(じょうい)」の方針のもとに、幕府に対して積極的に政治的指導を行った。朝廷が単なる権威的存在でなくなるとともに、幕府政権改造構想の一つとして「公武合体」が説かれるようになる。老中安藤信正(あんどうのぶまさ)が実現させた1862年(文久2)の和宮降嫁(かずのみやこうか)は、天皇側からは幕府の専断にたがをはめ、攘夷を実行させるための「公武合体」であったが、幕府側にとっては「幕府延命策」として受けとられたものであった。文久(ぶんきゅう)年間(1861~1864)の後半から慶応(けいおう)期(1865~1868)の政局は、幕府(将軍)自体の主体性が消滅して、不安定で流動的なものとなっていった。しかし他方、孝明天皇が強く求めていた攘夷断行も、長州藩の対外敗北と文久三年(1863)八月十八日の政変でつぶれ、松平慶永(まつだいらよしなが)(松平春嶽(しゅんがく))、山内豊信(やまうちとよしげ)(山内容堂(ようどう))、伊達宗城(だてむねなり)らを抱き込んだ雄藩連合に支えられた公武合体政権が目ざされるに至った。そこに一貫していたのは、幕府(将軍)の否定(倒幕)が説かれてはいないことであった。一方、水戸藩や各地の志士の唱えた攘夷論は、なし崩し的に開国を余儀なくされている幕府への批判から、天皇の存在を重視し、尊王攘夷論として高揚をみていった。安藤信正の暗殺をねらった坂下門外の変の主謀者大橋訥庵(おおはしとつあん)は、すでに幕府政権を否定した「王政復古」を説いていた。
こうしたなかで、京都の攘夷派公卿、とくに岩倉具視(いわくらともみ)が早くから唱えていた「関東へ委任してある政権を、朝廷へ収復すべし」とする王政復古論が、万延(まんえん)・文久年間(1860~1864)から大きな影響力をもつようになっていった。そして、強硬な攘夷論を放棄した長州藩と、薩英戦争(さつえいせんそう)後の薩摩藩とが連合して武力倒幕派を形成し、そこにこの王政復古論が結合して1867年(慶応3)に至る。同年10月、幕府は薩長の武力倒幕派を一時的に抑えたが、土佐藩の主導による将軍徳川慶喜(よしのぶ)の「大政奉還」によって崩壊した。しかし、朝廷・旧幕府・雄藩連合による「公議政体論」に対して、岩倉と結んだ薩長武力倒幕派によって、12月9日、王政復古の「告諭」(いわゆる「大号令」)が出された。倒幕派公卿と、尾張(おわり)、越前(えちぜん)、土佐、安芸(あき)、薩摩の5藩によるクーデターで、主眼は徳川氏の排除にあり、慶喜の辞官・納地を命じ、新政権でのいっさいの地位が否定された。総裁・議定・参与の三職以下、七科の制(のち八局)による新政府が成立したが、旧幕府に対する厳しい責任追及が、戊辰(ぼしん)内乱を招くに至るのである。
[河内八郎]
『維新史料編纂会編『維新史』全6冊(1939~1941・明治書院)』▽『遠山茂樹著『明治維新』(1951/改版・1972・岩波全書)』▽『吉田常吉他編『幕末政治論集』(『日本思想大系56』1976・岩波書店)』