王家の谷(読み)おうけのたに

精選版 日本国語大辞典 「王家の谷」の意味・読み・例文・類語

おうけ‐の‐たに ワウケ‥【王家の谷】

エジプトナイル川中流、ルクソール対岸(ナイル川左岸)にある丘陵地。古代エジプトのテーベ死者の都。谷には新王国時代諸王の墓がある。一九二二年に、ツタンカーメンの墳墓がほぼ完全な形で発掘された。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「王家の谷」の意味・読み・例文・類語

おうけ‐の‐たに〔ワウケ‐〕【王家の谷】

エジプト南東部の古代都市テーベ(現ルクソール)のナイル川西岸丘陵にある新王国時代(前16~前11世紀)の王墓群。1922年にはツタンカーメンの墳墓が発掘されたことで知られる。1979年、「古代都市テーベとその墓地遺跡」の名で世界遺産文化遺産)に登録された。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「王家の谷」の意味・わかりやすい解説

王家の谷 (おうけのたに)

上エジプトの古代都市テーベのナイル川西岸にある新王国時代の王墓地。現地名はビバーン・アルムルークBibān al-Muluk。リビア砂漠のはずれ,ディール・アルバフリーの断崖のすぐ背後の北へ開くワーディー(涸れ谷)の奥にあり,第18王朝第3代トトメス1世から第20王朝最後の王ラメス11世まで,アマルナに王墓を造営したイクナートンを除き,すべての王墓が造営された。王墓地ではあるが,特に許された高官貴族の墓を含み,総数62基,東西二つの支谷のうち西谷の4基を除き,ほとんどが東谷にある。歴史的・文化的に重要なものにトトメス1世(38,数字は墓番号,以下同じ),同3世(34),同4世(43),アメンヘテプ2世(35),同3世(22),ツタンカーメン(62),アイ(23),ホルエムハブ(57),セティ1世(17),ラメセス1世(16),同2世(7),メルエンプタハ(8),ラメセス3世(11),同6世(9),同9世(6)の各王墓がある。

 王家の谷の出現は葬祭慣行の変化による。新王国時代以前の王墓の形式は,古王国時代に確立されたピラミッド形式で,埋葬の場(ピラミッド)と供養の場(葬祭殿)とが結びついた〈ピラミッド複合体〉を形成していた。しかしこれは墓泥棒の格好の目標となり,上エジプトではピラミッド建造に必要な砂漠の平地が少ないことも加わって,王墓と葬祭殿とを分離し,葬祭殿は砂漠と耕地の接するナイル河谷に営み,王墓は岩窟墓(岩窟羨道墳)として砂漠の谷に隠すという方式が考案された。谷の最奥のピラミッド形の山が,人工のピラミッドの代りとされた。こうした努力も空しく,王家の谷の所在はすぐ秘密ではなくなり,ツタンカーメン王墓を除いてすべて盗掘されて豪奢な副葬品は姿を消していた。ただ53体のミイラだけは,2ヵ所の隠し場(ディール・アルバフリーおよびアメンヘテプ2世王墓)に集められ,1881年および98年に発見された。墓の形式(岩窟墓)は,階段や通廊がいくつかの墓室をはさんで続き,前室を経て石棺を納めた玄室に達する。玄室のまわりや途中には副葬品を収納する小室群が,第18王朝王墓では途中に落し穴が設けられていた。全体の配置は,初めは途中で1回もしくはそれ以上方向を転じていたが,イクナートンの改革の影響で,第18王朝末のアイ王墓以降は一直線上に並んでいる。墓室内にはしばしば角柱が掘りだされ,長大な壁面(最大のラメセス3世王墓で入口から玄室まで125m)は美しい彩色浮彫または壁画で飾られている。主題は王と神々との交流(王による神々の礼拝,神々に迎えられる王,開口の儀式やオシリスの裁判などの復活の儀式)および太陽神の冥界での航海に大別される。後者は〈冥界の書〉の名で総称され,牡羊頭の太陽神が夜間航海する冥界の状況を詳細な挿絵入りで解説した一種の冥界の案内書で,《アムドゥアトの書》《門の書》《洞穴の書》《アケルの書》《昼の書と夜の書》の5書があり,新王国王墓を特徴づける主題である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「王家の谷」の意味・わかりやすい解説

王家の谷
おうけのたに

上エジプトのルクソールの対岸(西岸)にある、新王国時代の王たちの墓のある谷。東の谷と西の谷に分かれ、62基の墓がここで発見されている。このうち25基が王墓である。いちばん新しく発見された王墓は、1922年発見のツタンカーメン王墓。この谷に初めて王墓を築いたのは第18王朝の3代目の王トゥトメス1世で、彼は葬祭殿と墓を別々の地に築き、墓を人目につきにくい所の、地下岩盤の中に設けるという新しい設計をした。ピラミッドのように豪壮な墓は、いかに堅固でも盗掘者の手を逃れることはできないという歴史的考察からである。そのあと、第19、第20の2王朝の王がこれに倣った。王のほかに王子、王族もときとしてここに葬られた。

 大きさはいろいろだが、入口から玄室まで100メートルを超える大形のものとして、ホルエンヘブの墓(105メートル)とセティ1世の墓(110メートル)がある。玄室に達するまで、室、落し穴、通廊の組合せが続き、壁面は宗教上の文字と絵で覆われている。盗掘はすでに第20王朝に始まっていて、その裁判記録が残っている。王家はある時代には数十人の王のミイラをまとめて1か所の隠し場に再埋葬までした。盗掘は休むことなく現代にまで続いた。そのため19世紀に考古学者が墓に入ったとき、墓はすべて荒らされたあとであった。ほぼ無傷だったのはツタンカーメン王墓ただ一つである。この谷は1979年に「古代都市テーベ(ルクソール)とその墓地遺跡」として、世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。なお、1903年にここから2体の女性のミイラが発見されていたが、2007年にエジプト考古庁はそのうちの1体をDNA鑑定により第18王朝5代目の女王ハトシェプストと特定したと発表した。

[酒井傳六]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「王家の谷」の意味・わかりやすい解説

王家の谷【おうけのたに】

エジプト,テーベの北西にある谷。王陵の谷とも。古代エジプト新王国時代に入り,墳墓と葬祭殿が別に造られるようになり,ツタンカーメンの墓をはじめ,王の岩窟墳墓がここに造られているのでこう呼ばれる。形式の整ったものとしてはトトメス1世の墓が最古。
→関連項目カーターテーベ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界遺産情報 「王家の谷」の解説

王家の谷

ナイル川の西約4km位、ネクロポリス奥地の涸れ谷に位置する、ファラオ(王)が眠る「王家の谷」。古代エジプト人は、再生復活信仰があり、日の沈む西岸は「来世=死者の町」と信じていました。王家の谷は、ピラミッドに似た三角山がある険しい岩肌に囲まれた岩窟墓です。1922年イギリス人に新王国時代第18王朝のツタンカーメン王の墓が発見され、現在までに62の墓が発見されていますが、ツタンカーメン王以外は総て盗掘されていました。他にラムセス6世、セティ1世、アメンヘテプ2世、トトメス3世などの地下墳墓がみどころです。

出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「王家の谷」の解説

王家の谷(おうけのたに)
Valley of the Kings

テーベ西郊,ナイル川左岸の岩山に掘られたエジプト新王国時代の王室の岩窟墳墓。トトメス1世からラメセス11世まで,60以上が知られている。ツタンカーメンのものは最も有名。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「王家の谷」の解説

王家の谷
おうけのたに

王陵の谷

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「王家の谷」の意味・わかりやすい解説

王家の谷
おうけのたに

王陵の谷」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の王家の谷の言及

【エジプト美術】より

…これは防御用の塔をつけたがんじょうな城壁や空濠で守られ,内部は直線のメーン・ストリートを軸に司令部,神殿,兵舎,倉庫などが整然と配置されていた。
[新王国時代]
 第18王朝から王墓はテーベ西岸の山中にある〈王家の谷〉の岩山の中にひそかに掘りこまれ,葬儀や供養は山を隔てて別に建てられた葬祭神殿で行われた。王墓はいくつかの広間をへて地底深くのびる廊下の奥にあり,石棺や副葬品を納める諸室があった。…

※「王家の谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android