王世貞(読み)おうせいてい(英語表記)Wáng Shì zhēn

精選版 日本国語大辞典 「王世貞」の意味・読み・例文・類語

おう‐せいてい ワウ‥【王世貞】

中国、明代の文学者。字(あざな)は元美。号は弇州(えんしゅう)山人。江蘇太倉の人。古文復古運動の中心をなし、李攀龍(はんりょう)とともに「後七子」の中心人物として格調を重んじる擬古主義主張文壇に君臨した。荻生徂徠を通じて、江戸初期の日本の詩壇に与えた影響は大きい。著「弇州山人四部稿、続稿」など。(一五二六‐九〇

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デジタル大辞泉 「王世貞」の意味・読み・例文・類語

おう‐せいてい〔ワウ‐〕【王世貞】

[1526~1590]中国、代の政治家文人。太倉(江蘇省)の人。あざなは元美。号は鳳州・弇州えんしゅう山人。李攀竜りはんりょうらとともに後七子ごしちしの一人。盛唐の詩、秦漢の文を尊ぶ古典主義を唱えた。著「弇州山人四部稿」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「王世貞」の意味・わかりやすい解説

王世貞 (おうせいてい)
Wáng Shì zhēn
生没年:1526-90

中国,明末の文人。字は元美,鳳洲また弇州(えんしゆう)山人と号し,江蘇太倉の人。嘉靖26年(1547)の進士。官は南京刑部尚書に至った。李攀竜(りはんりゆう)と交わって詩社を起こし,〈文は必ず西漢,詩は必ず盛唐〉という復古の主張は,たちまち一世を風靡し,多くの追随者を生んだ。李夢陽(りぼうよう),何景明らの前七子に対し,この李・王と謝榛しやしん),呉維岳,梁有誉(りようゆうよ),呉国倫,徐中行を後七子と呼ぶ(七子)。万暦年間(1573-1619)前半の20年を文壇に君臨し,絶大な影響力をもったが,晩年にはその作風はしだいに平淡におもむいた。しかしその亜流古人の作の模擬剽窃に陥り,やがて公安・竟陵両派の衰退へと転落してゆく。彼はきわめて博学で,文化のあらゆる事象に旺盛な興味を示し,文芸のみならず経学,史学に詳しく,書画古器の鑑蔵家としても名高い。著は《弇州山人四部稿》174巻,《弇州山人続稿》207巻,《芸苑巵言(げいえんしげん)》8巻など30種に達する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「王世貞」の意味・わかりやすい解説

王世貞
おうせいてい
(1526―1590)

中国、明(みん)中期の文人。字(あざな)は元美。号は鳳洲(ほうしゅう)または弇州(えんしゅう)山人。太倉(たいそう)(江蘇(こうそ)省)の人。1547年(嘉靖26)の進士。官は南京(ナンキン)刑部尚書に至った。李攀竜(りはんりゅう)とともに後七子(ごしちし)の領袖(りょうしゅう)として、何景明(かけいめい)、李夢陽(りぼうよう)ら前七子(ぜんしちし)の復古運動を継承し、万暦年間(1573~1620)の前半、詩壇に君臨した。「文は前漢、詩は盛唐」と主張し、中唐以後の書物は読むなと禁じたほどであったが、晩年には白居易(はくきょい)や蘇軾(そしょく)を愛し、格調を重んじて装飾的であったその詩文は、しだいに平淡に赴いた。門人は天下に満ち、復古派の勢威は絶頂に達したが、彼らの詩文の模擬はやがて剽窃(ひょうせつ)へと堕落し、衰退の兆候を帯び始める。彼はきわめて博学で、その領域も文芸のみならず経学や史学にわたり、著は『弇州山人四部稿』、同『続稿』、『芸苑巵言(げいえんしげん)』など30種に及ぶ。伝は『明史』文苑伝(ぶんえんでん)3にある。

[福本雅一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「王世貞」の意味・わかりやすい解説

王世貞
おうせいてい
Wang Shi-zhen

[生]嘉靖5(1526).11.5.
[没]万暦18(1590)
中国,明の文学者。太倉 (江蘇省) の人。字,元美。号,鳳洲,えん州山人。嘉靖 26 (1547) 年進士に及第,刑部主事になった。父の王よが権力者の厳嵩に憎まれて獄死すると,官職を捨ててその無実を晴らそうと奔走し,10年後その望みがかなうと再び任官した。応天府尹などを経て,南京刑部尚書を最後として帰郷。いわゆる古文辞派で,李攀龍 (りはんりょう) らとともに,後七子の一人として古典主義文学運動を進め,李攀龍の死後は,その運動の,そしてまた当時の文壇の指導者として活躍。その文学論は『芸苑巵言 (げいえんしげん) 』にまとめられている。『えん州山人四部稿』 (174巻) がある。

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世界大百科事典(旧版)内の王世貞の言及

【帰有光】より

…《史記》,韓愈,欧陽修の古文を好み,その〈花史館記〉は《史記》に心酔したことを示す一例。当時の文壇は後七子の勢力が強く,彼はその中心である李攀竜(りはんりゆう),王世貞らを〈妄庸の巨子〉と批判し,王世貞らも,彼の古文を認めなかった。王世貞は晩年に〈帰太僕賛〉を作り〈千載公有って韓・欧陽を継ぐ〉とほめた。…

【金瓶梅】より

…作者は笑笑生と署名しているが不明。清代以降の通説では,嘉靖年間(1522‐66)の名士であった王世貞に擬せられていたが,1932年に1617年(万暦45)刊の《金瓶梅詞話》本が発見されるに及び王世貞説は否定された。しかし最近ふたたび,笑笑生は王世貞ではないかと検討され始めており,《金瓶梅》の作者が明らかになる日も遠くはあるまい。…

【七子】より

…その作風と文学論は,それぞれに特色があり,なかでも李夢陽と何景明の模擬と創作をめぐる論争は有名である。後七子は嘉靖年間(1522‐66)に李夢陽の文学を継承して,模擬の文学を標榜した李攀竜(りはんりゆう)と,それに共鳴した王世貞,および謝榛,徐中行,宗臣,梁有誉,呉国倫をいう。前七子の李・何,後七子の李・王が有名で〈李何李王〉と併称する。…

【徂徠学】より

…朱子学が誤っているとすれば,それは四書五経を誤読し,そこに書かれている聖人の教えを誤解したということであるから,徂徠は,二つの疑問を解決するためには四書五経を正確に読解せねばならず,それには四書五経の言語=古代中国語に習熟するところから始めねばならないと考えた。おりから徂徠は,中国明代の古文辞派と呼ばれる文学集団の指導者李攀竜(りはんりよう),王世貞(おうせいてい)の文集に接して,古代中国語に習熟するための方法について大きな示唆を与えられた。古文辞派は,〈文は必ず秦漢,詩は必ず盛唐〉というスローガンのもとに,秦漢の文,盛唐の詩を徹底的に模倣する擬古主義の文学運動を展開した一派である。…

【中国文学】より

…あたかも書道における往古のどの名筆を習うべきかの議論に似ている。 明の中期(16世紀前半)の李夢陽(りぼうよう),何景明らの前七子は唐詩の至上をとなえ,同じ世紀の後半李攀竜(りはんりゆう),王世貞らの後七子はその説をさらにおし進めた。《唐詩選》はこの派の教科書であった。…

※「王世貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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