猪俣津南雄(読み)いのまたつなお

精選版 日本国語大辞典 「猪俣津南雄」の意味・読み・例文・類語

いのまた‐つなお【猪俣津南雄】

経済学者、評論家新潟県出身。労農派の代表的論客で、日本資本主義の現状分析に多くの労作を残した。また昭和初期の合法左翼運動を指導し、昭和一二年(一九三七人民戦線事件検挙、投獄された。(一八八九‐一九四二

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デジタル大辞泉 「猪俣津南雄」の意味・読み・例文・類語

いのまた‐つなお〔ゐのまたつなを〕【猪俣津南雄】

[1889~1942]社会主義者・経済学者。新潟の生まれ。早大卒。日本共産党結成に参加。のち、同党に対して批判的となり、山川均らと雑誌「労農」を創刊、労農派の論客として日本資本主義の現状分析で労作を残した。著「帝国主義研究」「現代日本研究」「農村問題入門」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「猪俣津南雄」の意味・わかりやすい解説

猪俣津南雄 (いのまたつなお)
生没年:1889-1942(明治22-昭和17)

昭和初期のマルクス主義理論家。新潟市に生まれ,長岡中学,早稲田大学専門部政治経済科,ウィスコンシン大学卒業後,1921年早大講師となったが,23年第1次共産党事件に連座,26年に禁錮4月の刑に服した。27年同志と雑誌《労農》を発刊したが,のち同人脱退。37年に人民戦線事件で検挙されたが腎臓炎が悪化,39年出所し入院,42年死去。労農派初期の理論家,経済評論家として《中央公論》《改造》誌上でも活躍したが,とくに金融資本論帝国主義論など当時の日本では新しい領域を開拓したほか,インフレーションや農村問題などに幅広く論陣をはった。著書は,《金融資本論》(1925),《現代日本研究》(1929),《金の経済学》(1932)など19冊にのぼる。
日本資本主義論争
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「猪俣津南雄」の意味・わかりやすい解説

猪俣津南雄
いのまたつなお
(1889―1942)

経済学者。明治22年4月23日新潟市に生まれる。早稲田(わせだ)大学政経学部を卒業、さらにアメリカのウィスコンシン、シカゴ、コロンビアの諸大学で経済学を学ぶ。在米中、片山潜(せん)の組織した「在米日本人社会主義者団」に加入。1921年(大正10)帰国して早大講師となる。22年結成の日本共産党に参加、23年の第一次共産党事件で検挙され、早大を追われた。共産党の再建には加わらず、共産党の革命戦略論や現状分析とは対立する論文、著作を発表し、27年(昭和2)12月には山川均(ひとし)などと雑誌『労農』を創刊、労農派の中心人物の一人として論壇で活躍を続けた。『金融資本論』(1925)、『現代日本研究』(1929)、『金の経済学』(1932)、『農村問題入門』(1937)ほか数多くの著作があり、マルクス経済学の普及と日本の政治、経済のマルクス主義的分析の開拓に果たした役割は大きい。

 37年に人民戦線事件で検挙され、39年には病気のため、刑の執行を停止されたが、病いえず42年(昭和17)1月19日没した。

[山崎春成]

『猪俣津南雄研究会編・刊『猪俣津南雄研究』1~16号(1970~74)』

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百科事典マイペディア 「猪俣津南雄」の意味・わかりやすい解説

猪俣津南雄【いのまたつなお】

マルクス経済学者。新潟市出身。早大専門部に学び,ウィスコンシン大学卒業。のち早大講師。第1次共産党事件(1923年)に連座後,雑誌《労農》同人(1927年―1929年),以後文筆生活。1937年人民戦線事件で検挙。労農派の理論家で,日本の革命を社会主義革命と規定し,講座派と対立した(日本資本主義論争)。主著《金融資本論》《帝国主義研究》《金の経済学》。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「猪俣津南雄」の意味・わかりやすい解説

猪俣津南雄
いのまたつなお

[生]1889.4.23. 新潟
[没]1942.1.19. 東京
経済学者,社会主義者。早稲田大学政治経済学科卒業。 1915年渡米,ウィスコンシン大学などで学び,21年帰国して早稲田大学講師。 22年共産党結成に参加。 23年第1次共産党事件で検挙され,早稲田大学を辞職。 25年 R.ヒルファーディングの『金融資本論』を翻訳刊行。高橋亀吉のプチ帝国主義論を批判。 27年『労農』に参加するが,横断左翼論が山川均の合法単一無産政党論と対立,29年『労農』から脱退。以後,在野で戦闘的運動理論家として活躍。 37年人民戦線事件で検挙。 39年出所後入院し,42年東京,赤坂の病院で死去。主著は『帝国主義研究』 (1928) ,『踏査報告 窮乏の農村』 (34) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「猪俣津南雄」の解説

猪俣津南雄 いのまた-つなお

1889-1942 大正-昭和時代前期の経済学者,社会主義者。
明治22年4月23日生まれ。大正4年渡米し,経済と哲学をおさめ,片山潜の在米日本人社会主義者団にくわわる。10年母校早大の講師。11年共産党にはいり,12年,第1次共産党事件で検挙される。昭和2年山川均らと「労農」誌を創刊,労農派の中心的論客として活躍。12年人民戦線事件で検挙された。昭和17年1月19日死去。54歳。新潟県出身。著作に「金融資本論」「金の経済学」など。

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世界大百科事典(旧版)内の猪俣津南雄の言及

【改造】より

…B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いたり,プロレタリア文学流行期にはそれに多くの誌面を割くなど,つねに時代の新思潮を敏感にとらえ大正末年には《中央公論》とならぶまでに成長した。本誌の最多執筆者だった山川均のほか河上肇,猪俣津南雄,櫛田民蔵ら多くのマルクス主義者に誌面を開放し,社会主義運動とマルクス主義の普及に多大の貢献をした。いっぽう,文芸欄は文壇の登竜門としての権威をもち,志賀直哉《暗夜行路》,中条(宮本)百合子《伸子》,芥川竜之介《河童》などの名作も生まれた。…

【日本資本主義論争】より

…当時のマルクス主義者はこの危機打開の道をめぐって二つの陣営に分かれて対立した。その代表的論争は,野呂栄太郎と猪俣津南雄との戦略論争である。野呂は日本共産党の〈27年テーゼ〉を支持する立場から,日本国家の民主主義化のための闘争は,不可避的に封建的残存物にたいする闘争から資本主義それ自体にたいする闘争に転化するであろうと主張した。…

【マルクス経済学】より

…これがいわゆる〈二段階革命論〉であったが,それが日本共産党のいわゆる〈32年テーゼ〉とぴったりと一致することは,周知のことがらであった。 これに対して,雑誌《労農》に結集した山川均猪俣津南雄,向坂逸郎(1897‐1985),大内兵衛櫛田民蔵,土屋喬雄(1896‐1988)らの学者は,総じて労農派と呼ばれたが,彼らはほぼ次のように主張した。明治維新は一種のブルジョア革命であり,したがってそれ以後,日本社会の構造は土地所有よりも資本の運動によって規制されるようになった。…

【労農】より

…1927年12月,山川均,猪俣津南雄,荒畑寒村らによって創刊された理論雑誌。1926年3月に創刊された雑誌《大衆》同人の鈴木茂三郎,黒田寿男,大森義太郎らも合流した。…

※「猪俣津南雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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