狭山池(読み)サヤマイケ

デジタル大辞泉 「狭山池」の意味・読み・例文・類語

さやま‐いけ【狭山池】

大阪狭山市にある溜め池古事記に築造の記事の見える、日本最古の溜め池の一つ。

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精選版 日本国語大辞典 「狭山池」の意味・読み・例文・類語

さやま‐いけ【狭山池】

大阪府大阪狭山市にある、日本最古の溜池の一つ。「日本書紀」「古事記」に記事が見え、六世紀末から七世紀初頭の築造とされる。

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日本歴史地名大系 「狭山池」の解説

狭山池
さやまいけ

狭山町の中央北寄りにある。東の羽曳野はびきの丘陵と西の狭山丘陵との間に位置し、池尻いけじり半田はんだ岩室いわむろにまたがる。北流する西除にしよけ川とその西側を北流する三津屋みつや川を堰止めて造った池で、周囲約四キロ、満水面積三八・九ヘクタール、灌漑面積約五七〇ヘクタール。北西岸から西除川が流出し、北東岸からは当池を水源とする東除川が流出する。府指定顕彰史跡名勝。

〔古代・中世〕

「日本書紀」崇神天皇六二年七月二日条に、天皇が「農は天下の大本なり。(中略)今、河内の狭山の埴田水少し。是を以て其の国の百姓、農の事を怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ」と詔したとあり、「古事記」垂仁天皇段には、垂仁の皇子印色入日子命が血沼ちぬ池などとともに狭山池を造ったとある。もとより伝説であるが、ここにみえる狭山池が上記の狭山池に当たるものであろう。実際の築造年代は記紀の伝えより下り、池の内側の斜面に少なくとも五ヵ所の須恵器の窯跡が発見されているところから、その須恵器の窯の廃絶したのち、すなわち六世紀末ないし七世紀初頭ではないかといわれる(大阪府史)。「続日本紀」天平四年(七三二)一二月一七日条に「築河内国丹比郡狭山下池」と狭山下さやまのしも池がみえる。「行基年譜」には同三年の項に「狭山池院 二月九日起 尼院 已上在河内国丹比郡狭山里」とあり、また同書所収の「天平十三年記」は行基の築いた池一五ヵ所のなかに「狭山池」をあげる。おそらく行基は狭山池のほとりに狭山院と尼院を建て、そこに集まる信者の力で狭山池を修理し、さらに狭山下池を築き、水利の便の増大を図ったのであろう。このとき造られた下池は、狭山町の太満たいま池または堺市野田のだにあったとどろき池かといわれる。「続日本紀」天平宝字六年(七六二)四月八日条に、狭山池の堤が決壊したので延べ八万三千人の人夫を使って修造したとある。下って鎌倉時代には僧重源が狭山池を修理し、石樋を六段に置いたことが「南無阿弥陀仏作善集」にみえる。この時の樋と思われるものが大正一四年(一九二五)の大修理の際に発見されたが、石樋には家形石棺の身や蓋で作られたものがあり、いま北の堤の裾に置かれている。なおこの石棺は富田林とんだばやし市のお亀石かめいし古墳付近にあったものらしい(狭山町史)。永禄年間(一五五八―七〇)には、畠山氏の被官安見氏が修築を試みたが成功しなかったという。狭山池は歌にも詠まれ、

<資料は省略されています>

などの歌がある。藤原顕季の「五月闇さやまの峯にともす火は雲の絶間の星かとぞみる」(千載集)は、池周辺の小高い丘陵を詠んだものか。

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改訂新版 世界大百科事典 「狭山池」の意味・わかりやすい解説

狭山池 (さやまいけ)

大阪府大阪狭山市にある池。《古事記》垂仁記の築造記事が初見。これをそのままは認められないが,大化前代大和朝廷による活発な池溝開発を考えるとき,推古朝までには築造されたであろう。731年(天平3)行基による修築が行われ,翌年には狭山下池が新設され,上,下の2池となった。
執筆者: 掘削以来,豊臣秀頼による1608年(慶長13)の改修まで,幾回かの決壊・再興を経ているが,その位置は変わらず,大阪府の手による1927年の大改修以後今日まで変化がなく,灌漑用水池としての機能を果たしている。承水区域の面積1800ha,貯水面積51haで,現在もなお大阪府下有数の大池であることは,その古代における位置選定の優秀さを物語る。1705年(宝永2)の大和川付替えによって,それ以北の部分は承水区域から脱したが,しかも第2次大戦前の灌漑区域面積は2500haにも達していた。この池の配水上の特色は,これよりも海岸部に近く位置する多くの小池の親池として,非灌漑期の余剰水を,これら多くの小池に貯留させていることであり,江戸期には大仙陵池(仁徳陵の外濠)にまで送水したことがある。余剰水は〈西除(よ)け〉〈東除け〉の2本の送水路から流出し,〈西除け〉の方が大きいこともあって,江戸期にはしばしばその流水口付近の決壊をみたことがあった。村々への配水は番水制(村ごとの時間配水)であるが,慶長以後,いつのころからか,池に近い村々のうちに割当時間の範囲内で量水標を経ず直接に,それらの村々のもっとも必要とする時期に,随時引水しうる特権をもつ直乗(じきのり)4ヵ村,准直乗7ヵ村を生じている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「狭山池」の意味・わかりやすい解説

狭山池【さやまいけ】

大阪府大阪狭山市にある日本最古の溜池。北流する西除(にしよけ)川と三津屋(みつや)川をせき止めて造った。《日本書紀》崇神(すじん)天皇62年7月2日条に天皇が河内の狭山に池溝を開けと詔したとあり,《古事記》垂仁天皇段には皇子印色入日子(いにしきのいりひこ)命が当池を造ったとみえる。731年行基が修理し翌年下池を築造したと考えられ,1202年には重源(ちょうげん)が修理して石樋を置いた。1608年豊臣秀頼の命で片桐且元の奉行による御用普請で面積は50ha以上となり,約80村・5万5000石を灌漑(かんがい)した。江戸時代は幕府直轄で一時期狭山藩が支配し,池を管理する池守は慶長の大改修以来の池尻家の関係者が世襲した。池水の大部分は直接耕地を灌漑せず,親池として水下村落の溜池に送水された。配水は時間による番水制を採用。1704年の大和川付け替えにより送水・排水路が切断され,水懸高は約1万石減少,村数も50ほどとなった。時期は不明だが割当時間の範囲内で随時引水する権利を持つ7村が生じた。1898年狭山池普通水利組合が結成され,大正から昭和初期に送水方法・規約も近代化された。1988年から治水ダム化工事がはじまり,炭素同位体法による年代測定などで築造は7世紀初期とされ,また重源の改修を裏づける石碑が発見された。灌漑区域は478ha,狭山池ダム完成後の湛水面積は36ha,貯水容量280万m3,堤頂長2830m,堤高18.5m。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狭山池」の意味・わかりやすい解説

狭山池
さやまいけ

大阪府南部、大阪狭山市中央部にある溜池(ためいけ)。東部の羽曳野(はびきの)丘陵と西部の泉北丘陵間の狭隘(きょうあい)部にあり、『古事記』には垂仁天皇(すいにんてんのう)の子印色入日子命(いにしきのいりひこのみこと)の築造とある。古代より改修を繰り返し、2001年(平成13)平成の改修が完了、洪水調整機能を備えた新しいダム式の溜池として生まれ変わった。均一型アースフィルダム、堤高18.5メートル、堤頂長997メートル、湛水面積0.36平方キロメートル、総貯水容量280万立方メートル。府指定史跡・名勝で、池畔には狭山池博物館がある。

[位野木壽一]


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デジタル大辞泉プラス 「狭山池」の解説

狭山池

大阪府大阪狭山市にある溜池。古事記、日本書紀にも登場する日本最古の溜池として有名。7世紀前半の築造で、以後幾度かの大規模な改修がおこなわれている。“平成の大改修”の際には洪水調節機能の改善がなされ、この工事の際に発掘された出土品の多くは国の重要文化財に指定されている。多くの野鳥が訪れる市民の憩いの場で、春には1300本の桜が楽しめる。国の史跡、かんがい施設遺産、ため池百選に指定・登録・選定されている。

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事典・日本の観光資源 「狭山池」の解説

狭山池

(大阪府大阪狭山市)
関西自然に親しむ風景100選」指定の観光名所。

狭山池

(大阪府大阪狭山市)
大阪みどりの百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の狭山池の言及

【池】より

… 平安時代の文学者たちは京都,奈良の各地に,いわゆる名池なるものをつくっている。そうした名池も現代に残るものも少なくなり,都会に近いところではしだいに汚濁の水をためるようになってはいるが,河内の狭山池のように今日なお千数百年の澄潭(ちようたん)を持続するものもある。しかしこうした名池でなくとも美観をもった池はまだまだ各地に残っている。…

【池守】より

…たとえば,讃岐の満濃池は近世初頭に再興されたが,それに協力した土豪の矢原氏が代々池守となり,池守給を支給されていた。河内の狭山池では,近世初期の再興に下奉行として派遣された田中氏が,工事完了後現地に残されて池守に任命され,近世を通じて世襲した。池守は下役の樋守を指揮して池の管理,池水の分配を行い,役米を水下の村々から徴収した。…

【溜池】より

…樋の位置と並んで悪水吐口(はけぐち)についても,その付けようが悪ければ,洪水で堤が切れるものである等とある。 河内国の狭山池が中世の長期にわたって,また再興後の江戸中期においても十分に機能し得なかったのは,排水口(おもに西除け)の崩壊によるところが大きかった。明治初年の再興後,戦後に完成した讃岐満濃池の堤嵩(かさ)上げ(50%の貯水量の増加を見た)以前の吐口は,天然の岩盤の中をくり抜いて設けられていた。…

【樋】より

…池の樋には降雨期などで池水の満水したときに溢水・流出させる〈打樋〉があり,その所は最もたいせつで,池の破損は十中八九まで打樋の所からの堤切れによるから,地盤の固い所であることが要求される。河内国狭山池の破損・縮小は,東西2個の排水樋門(余水吐ともいう)の一つ〈西除げ〉の破壊によってであった。 池の樋には埋樋と尺八樋の2種があった。…

※「狭山池」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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