熱海(市)(読み)あたみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「熱海(市)」の意味・わかりやすい解説

熱海(市)
あたみ

静岡県の東端、伊豆半島の基部に位置する、日本の代表的な観光温泉都市。1891年(明治24)町制施行。1937年(昭和12)多賀(たが)村と合併して市制施行。1957年(昭和32)網代(あじろ)町を編入。面積61.78平方キロメートル、人口3万4208(2020)。

[川崎文昭]

自然

南、西、北の三方に山を巡らし、東方は急傾斜して相模灘(さがみなだ)に面している。また、海上12キロメートルに初島(はつしま)がある。市街地はかつての熱海火山の火口底の一部で、カルデラ陥没のため、東部が海湾になったといわれる。断崖(だんがい)の海岸線、温暖な気候、温泉をもつ熱海は「東洋のリビエラ」とよばれる。

[川崎文昭]

沿革

平安、鎌倉時代には阿多美郷(あたみごう)といわれていた。熱海温泉の由来は古く、仁賢(にんけん)天皇のとき熱湯海中にわいたといい、地名の起源とされる。古来、大湯(おおゆ)、清左衛門湯、小沢の湯、風呂(ふろ)の湯、河原湯、左治郎(さじろう)湯、野中湯など熱海七湯が開かれ、武将たちの湯治の場となった。徳川家康は1597年(慶長2)初めて入湯、1604年熱海に滞在、以後将軍家へ献湯が行われた。江戸時代中後期には、民衆湯治場として栄えた。当時、湯戸27軒が御汲(おくみ)場にあたり、献湯し、引き湯権、営業権を独占した。明治以来、著名な作家、画家、映画人が住むようになった。

[川崎文昭]

産業

観光業が中心であるが、1990年代以降低迷が続いている。1980年(昭和55)に、就業者数2万7561人のうち商業と旅館・飲食業などのサービス業につく者は1万9480人、運輸や土産(みやげ)製造などを加えると80%以上が観光と結び付く職業に従事していたが、2000年(平成12)でみると、就業者数2万2596人のうち、サービス業従事者は1万0664人、なんらかの形で観光と結び付く職業に従事している者の割合は約70%であった。農業はミカンを中心にする、観光みかん狩りが盛んで、漁業は網代港などでイワシ、サバ類を中心に年間約1300トンの水揚げがあり(2016)、干物加工品が名物である。

[川崎文昭]

観光・文化

東海道本線が丹那(たんな)トンネルの開通(1934)で熱海を通るようになると急速に発展。熱海駅からJR伊東線が分岐。現在、東海道新幹線で東京から約50分。国道135号、伊豆スカイライン、熱海ビーチライン、熱函(ねっかん)道路、伊豆箱根を縦横に走る路線バスが延び、京浜地方をはじめ全国から観光客が集まる。熱海温泉は毎分1万6000リットルを超える温泉が湧出(ゆうしゅつ)、源泉の数は500を超え、海岸から駅付近、さらに熱海峠へと続く山の手急斜面にかけて近代的ビルが建ち並び、一大歓楽街を形成している。泉質は多種多様であるが、だいたい海岸一帯にかけては塩化物泉、山の手は単純温泉、ほかに硫酸塩泉もある。ただ、1990年代以降、「団体から個人へ」といった旅行スタイルの変化や、バブル経済の崩壊などへの対応がうまくいかず、宿泊施設数、観光交流客数(観光入込客数)とも減少を続けている。宿泊施設数は1989年度(平成1)の726が2002年度には422、2019年度(令和1)には304に、観光交流客数は1989年度に819万0599人だったものが、2002年度には786万2139人、2019年度には721万7162人まで落ち込んでいる。観光資源は豊富で、『金色夜叉(こんじきやしゃ)』で知られるお宮の松、姫の沢(ひめのさわ)公園、熱海梅園と園内の中山晋平(しんぺい)記念館、伊豆山神社、坪内逍遙(しょうよう)が住んだ双柿舎(そうししゃ)などの名所、国宝多数を所蔵するMOA美術館などがあり、富士箱根伊豆国立公園の観光中心地でもある。ほかに、伊豆山温泉や、網代温泉も有名である。

[川崎文昭]

『『熱海』(1953・熱海市)』『『熱海市史』上下(1967、1968・熱海市)』『『熱海市史』資料篇(1972・熱海市)』


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