熊本城(読み)くまもとじょう

精選版 日本国語大辞典 「熊本城」の意味・読み・例文・類語

くまもと‐じょう ‥ジャウ【熊本城】

熊本市の中央、茶臼山にある平山城。慶長六年(一六〇一加藤清正が起工、同一二年完成した。のち細川氏一一代の居城となる。明治一〇年(一八七七)の西南戦争のとき宇土櫓(うとやぐら)などを残し大部分を焼失したが、昭和三五年(一九六〇天守閣が再建された。国特別史跡。銀杏(ぎんなん)城。

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デジタル大辞泉 「熊本城」の意味・読み・例文・類語

くまもと‐じょう〔‐ジヤウ〕【熊本城】

熊本市にある城。加藤清正の築造。慶長12年(1607)完成。江戸時代は細川氏が城主。西南戦争で焼失したが、昭和35年(1960)天守閣を再建。
[補説]平成28年(2016)4月の熊本地震長塀ながべい・北十八間やぐら・東十八間櫓・五間櫓・不開門あかずのもんなどが倒壊したほか、瓦や外壁の剝落、石垣の崩落など大きな被害を受けた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「熊本城」の意味・わかりやすい解説

熊本城
くまもとじょう

熊本県熊本市にある平山城。銀杏城ともいう。室町時代中期に菊池氏の一族出田氏が千葉城を築城し,のち鹿子木親員(かのこぎちかかず)が改築,隈本城と改称した。天正15(1587)年,豊臣秀吉九州征伐後,佐々成政が入城したが,翌 16年,成政の死後加藤清正が入城した。慶長6(1601)年,清正は大規模な築城工事を起こし,同 12年に竣工したといわれ,同時に熊本城と改称した。工事の監督には飯田覚兵衛,森本儀太夫があたり,城の全容は,7層の一ノ天守閣をはじめ,二ノ天守閣, 49,櫓門 18,城門 29,これを擁するに,坪井川を内堀とし,白川井芹川を外堀とする周囲 9kmに及ぶ豪壮なものとなった。銀杏城の名は清正が築城記念に 2本のイチョウ本丸前に植えたのに由来する。清正の子加藤忠広が,寛永9(1632)年出羽国庄内に配流になると,細川忠利が城主となり,以後明治維新にいたるまで細川氏の居城となった。明治4(1871)年ここに鎮台が置かれ,1877年西南戦争に際し,谷干城以下の籠城戦下において,宇土櫓を残し主要な建造物は焼失した。第2次世界大戦後,天守閣その他が再建された。2016年熊本地震が発生し,建物の損壊や石垣の崩落など大きな被害を受けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊本城」の意味・わかりやすい解説

熊本城
くまもとじょう

室町期~江戸期の城。熊本市中央区本丸にあり、別称を銀杏(ぎんなん)城という。城の歴史は、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)年間(1467~1487)ごろ、菊池氏の一族出田秀信(いでたひでのぶ)が坪井川右岸の丘に城を築き、千葉城と称したのに始まる。ついで1504年(永正1)ごろ(1521~1531年との説もある)鹿子木親員(かのこぎちかかず)が茶臼(ちゃうす)山の南西端に城を移し、名も隈本(くまもと)城と改めている。のち親員の女婿城氏に譲られ、その城氏も1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の九州征服のとき退去したため、かわって佐々成政(さっさなりまさ)が肥後(ひご)の領主として隈本城に入った。成政は検地反対の土豪一揆(いっき)を鎮圧できず、その乱の責任を負わされて切腹させられ、1588年肥後半国25万石を与えられた加藤清正(きよまさ)が入城した。関ヶ原の戦いで東軍に属した清正は、西軍に属した南肥後の領主小西行長(こにしゆきなが)の遺領をもあわせ肥後一国52万石の大名となり、1601年(慶長6)から大規模な築城工事を始め、室町~戦国期の千葉城、隈本城の地域をも含み、茶臼山全体に及ぶ新しい城を築き、名も熊本城と改めた。工事は1607年に完成した。1632年(寛永9)清正の子忠広(ただひろ)のとき改易となり、かわって細川忠利(ただとし)が入り、以来12代240年間相続して明治維新に至った。往時、天守閣が2、櫓(やぐら)49、櫓門18、その他の諸門が29あったといわれる。

 天守閣(大天守、小天守)は1877年(明治10)の西南戦争直前の火災で焼失してしまい、現在の天守閣は1960年(昭和35)の再建である。「三の天守」とよばれた宇土(うと)櫓は昔のままのもので、宇土城天守を移築したものといわれているが、移築説を裏づける決定的な資料がなく、不明。そのほか現存する櫓も多く、姫路(ひめじ)城とともに遺構の多い城の代表である。石垣も高石垣、長石垣とあり、基部を緩やかなスロープにし、天端(てんぱ)近くで急に直立する「清正公(せいしょうこう)石垣」とよばれる独特の武者返しの手法が随所にみられる。熊本城は国の重要文化財、熊本城跡は特別史跡。

[小和田哲男]


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改訂新版 世界大百科事典 「熊本城」の意味・わかりやすい解説

熊本城 (くまもとじょう)

熊本市中央区、茶臼山台地に聳立(しようりつ)する平山城。別名銀杏(ぎんなん)城。加藤清正・忠広,細川氏代々の居城。城郭規模の豪壮さ,堅実な構造,石垣の美観で知られる。周囲は12kmに及び,丘陵部を城郭に,侵食谷を空堀に巧みに利用し,大・小天守閣,宇土櫓(やぐら),三の丸,西出丸などを構成する。大・小天守閣は西南戦争時に焼失したが,1960年にほぼ原型どおりに復元された。旧天守閣の建築は1601-07年(慶長6-12)に竣工したといわれているが,建築様式・普請史料から豊臣期~江戸初期と推定される。大・小天守閣ともに同一石垣上に建築されている複合式形態で,大天守は地上三重6層(高さ32m)で,入母屋大屋根をもつ櫓を重ね,その上に望楼をのせ,屋根は南北に唐破風をもつ桃山式で政治・軍事用城郭である。小天守は二重4層(高さ19m)で1層の屋根が大きく,望楼は北側に寄せ,内部に書院をもつ江戸初期式の住居用城郭である。天守を支える石垣は裾広がりの扇形的線をつくり,一名〈武者返し〉といわれる特殊な工法をもち美観を呈する。天守閣に接して小西行長の宇土城天守を移したといわれる宇土櫓があり,そのほかに諸櫓や長塀が今日まで建築時の面影を伝える。なお城中に多数の深井戸があることも一つの特徴である。熊本城(13棟)は国の重要文化財,熊本城跡は国の特別史跡。
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日本の城がわかる事典 「熊本城」の解説

くまもとじょう【熊本城】

熊本県熊本市にあった平山城(ひらやまじろ)。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。京町台地の尖端にあたる、茶臼山丘陵全体にわたり築かれた。安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、加藤清正が中世の千葉城、隈本城の城域をも取り込み、現在のような姿に築城した。細川氏の居城となった後も増改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が現存したが、1877年(明治10)の西南戦争に際し、天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓(うどやぐら)をはじめとする11棟の櫓、長塀、不開門が国の重要文化財に、城跡は特別史跡に指定されている。また、「武者返し」の手法を駆使した石垣の遺構も多い。外観復元された大・小天守のほか、本丸御殿大広間なども復元され公開されている。JR鹿児島本線熊本駅から市電「健軍(けんぐん)」行き15分で熊本城前下車、徒歩約10分。熊本交通センターからタクシーで10分。◇銀杏城(ぎんなんじょう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「熊本城」の意味・わかりやすい解説

熊本城【くまもとじょう】

熊本市にあった平山城。加藤清正が1601年―1607年に築いたといわれる。1632年以後熊本藩細川氏の居城となった。高く堅固な石塁上に黒い板張りの櫓(やぐら)や塀がそびえ,名城とうたわれたが,西南戦争,第2次大戦で大部分焼失。天守閣は1960年復元された。
→関連項目熊本[市]

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旺文社日本史事典 三訂版 「熊本城」の解説

熊本城
くまもとじょう

熊本市にある平山城で,1607年に加藤清正が築城
銀杏 (ぎんなん) 城ともいう。応仁・文明年間(1467〜87),菊池一族の出田 (いずた) 氏が築いた千葉 (せんば) 城に始まる。享禄(1528〜32)のころ,鹿子木氏が隈本城を築き,改築・拡張を行い,清正のときに現在の規模となり熊本城と改称した。加藤氏の改易ののち細川氏の居城となった。廃藩置県後の1871年,鎮西鎮台(のち熊本鎮台)が置かれ,九州一円の軍管とされた。神風連の乱鎮圧に功あり,西南戦争には城の大半を焼失していたにもかかわらず,谷干城 (たにたてき) 以下の政府軍が50日余籠城し死守した。日本三大名城の一つ。

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事典 日本の地域遺産 「熊本城」の解説

熊本城

(熊本県熊本市中央区本丸1-1)
日本夜景遺産」指定の地域遺産。
加藤清正により築かれ、現在の天守閣は昭和の再建。2007(平成19)年築城400年を迎え、復元整備事業で本丸御殿大広間が完成。日没後はライトアップされる

熊本城

(熊本県熊本市中央区古京町1-1)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「熊本城」の解説

熊本城

(熊本県熊本市)
さくら名所100選」指定の観光名所。

熊本城

(熊本県熊本市)
日本100名城」指定の観光名所。

熊本城

(熊本県熊本市)
日本三名城」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の熊本城の言及

【熊本[市]】より

…8世紀中ごろ東部の出水(いずみ)地区に肥後の国府,国分寺が置かれ,その後南部の二本木に国府が移り,ここが数世紀にわたって肥後の中心となった。17世紀の初め加藤清正が築いた熊本城の城下町が市発展の基礎となり,その後細川氏54万石の城下町として栄えた。細川家に仕えた宮本武蔵は,金峰山の西,岩戸観音の霊巌洞に参禅し,《五輪書》を著した。…

※「熊本城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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