漫才(読み)まんざい

精選版 日本国語大辞典 「漫才」の意味・読み・例文・類語

まん‐ざい【漫才】

〘名〙 (「まんざい(万歳)⑥」から) 寄席演芸の一つ。二人の芸人がしぐさ言葉観客を笑わせる演芸。エンタツ・アチャコの人気を受けて、昭和七年(一九三二)一月の吉本興業の宣伝雑誌「ヨシモト」に、宣伝部長橋本鉄彦が漫談にヒントを得て命名し載せたのが初めという。
※耳を掻きつつ(1934)〈長谷川伸〉昨事・今事・脚本の業「小劇場向きの脚本を読み見ることを成るべくしてゐる、それは言葉の受渡しの妙をとりたく、古雑誌『百花園』を通読したり万歳(近頃漫才ともいふ)を聞くのと同じ意味である」

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デジタル大辞泉 「漫才」の意味・読み・例文・類語

まん‐ざい【漫才】

二人の芸人がこっけいなことを言い合って、客を笑わす寄席演芸。万歳2現代化したもので、大正初期に大阪で起こった。初め「万才」と書き、のち形式も多種多様に発達。
[類語]漫談講談講釈バラエティー

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「漫才」の意味・わかりやすい解説

漫才
まんざい

滑稽(こっけい)な軽口問答をする寄席(よせ)演芸。2人のコンビによることが多い。

[向井爽也]

万歳(万才)から漫才へ

万歳(まんざい)の近代化したもので、明治後期に上方(かみがた)(関西)から発生し、「万歳」「万才」「漫才」と順次変わっていった。古来の万歳の太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)による掛け合いに大阪俄(にわか)(仁輪加)などのおもしろさを加味してできたのがその原型で、万(よろず)の才能を要求されることから、のちに万才と書き改めるようになったとの説もある。明治末期から舞台にも進出、玉子家円辰(たまごやえんたつ)(1864/1865―1944)の一派、続いて江州(ごうしゅう)音頭出身の砂川捨丸(すながわすてまる)らが人気を集めた。形式は音曲をあしらい、歌い語りながら一方が鼓を打ち、他方が扇子で相手をたたいたりするしぐさを多く用いた。この音曲風の万才に新風を吹き込んだのが、1930年(昭和5)に大阪・玉造(たまつくり)の三光館に出演した横山エンタツ・花菱(はなびし)アチャコ(エンタツ‐アチャコ)のコンビである。音曲をまったく不得手とした2人が斬新(ざんしん)な話術をもって大受けしたもので、これがいわゆる「しゃべくり漫才」の元祖となった。その成功を機に、両人の所属する吉本興業が万才を漫才に書き改めたともいわれる。1934年に吉本興業文芸部に入った秋田実が台本を次々と書き、その後もこの分野で多大な貢献をした。しだいに万才は影を潜め、1935年以降はおおむね漫才の制するところとなり、芦乃屋雁玉(あしのやがんぎょく)(1894―1960)・林田十郎(はやしだじゅうろう)(1900―1967)、ミスワカナ(1910―1946)と玉松一郎(たままついちろう)(1906―1963)といった名コンビが生まれ、ラジオを通じて全国的にも隆盛となった。紋付羽織袴(はかま)姿で鼓を持った古典的な万才の型を最後まで捨てなかったのは砂川捨丸・中村春代(1897―1975)のコンビであった。

 一方、東京では、1914年(大正3)に大阪から万歳の一行が上京したのを機に普及の兆しをみせ、大正末期に米問屋出身の東喜代駒(あずまきよこま)(1899―1977)が喜代志と組んだのをはじめ、1933年(昭和8)にリーガル千太(せんた)(1901―1980)・万吉(まんきち)(1894―1967)、1940年に並木一路(いちろ)(1912―没年不詳)・内海突破(うつみとっぱ)(1915―1968)のコンビがそれぞれデビュー、東京におけるしゃべくり漫才の中心的存在となった。

[向井爽也]

東西漫才界の近況

第二次世界大戦後の東京では1955年(昭和30)に、横の連絡と親睦(しんぼく)および芸の向上を図るため漫才師50組が集まって「漫才研究会」を結成、リーガル万吉が会長に就任したが1964年に発展的解消、新たにコロムビア・トップ(1922―2004)を会長とした「漫才協団」が発足した。1998年(平成10)には内海桂子(けいこ)(1923―2020)が会長に就任。2005年(平成17)に「漫才協会」に改称した後も会長を続け、2007年まで務めた。その間、松鶴家(しょかくや)千代若(1908―2000)・千代菊(1915―1996)、獅子(しし)てんや(1924―?)・瀬戸わんや(1926―1993)、春日三球(かすがさんきゅう)(1933―2023)・照代(1935―1987)、ツービートビートたけし〈北野武〉・きよし、1949― )、爆笑問題(太田光、1965― ・田中裕二、1965― )などが輩出、また大阪では中田ダイマル(1913―1982)・ラケット(1920―1997)、ミヤコ蝶々(ちょうちょう)(1920―2000)・南都雄二(なんとゆうじ)(1924―1973)、夢路いとし(1925―2003)・喜味(きみ)こいし(1927―2011)、横山やすし(1944―1996)・西川きよし(1946― )、オール阪神(1957― )・巨人(1951― )、宮川大助(1949― )・花子(1954― )などが活躍した。総じて大阪の漫才は感性に、東京の漫才は理性に訴えるとされているが、これは大阪弁そのものが漫才の掛け合いに適した雰囲気をもっているのに対し、東京弁はそうしたおもしろさに欠けるため、やむなく理屈で笑わせる方法をとっていることに起因しよう。

[向井爽也]

『小島貞二編『大衆芸能資料集成7 寄席芸Ⅳ』(1980・三一書房)』『秋田実著『大阪笑話史』(1984・編集工房ノア)』『三田純市著『昭和上方笑芸史』(1994・学芸書林)』『相羽秋夫著『上方漫才入門』(1995・弘文出版)』『相羽秋夫著『漫才入門百科』(2001・弘文出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「漫才」の意味・わかりやすい解説

漫才 (まんざい)

演芸の一種目。通常コンビを組んだ2人が舞台上でこっけいな掛合いを演ずるという形式をとる。漫才の背景に平安朝以来の万歳がある。それは2人づれ,あるいは数人づれで,戸別訪問をして,その家の繁栄を願う予祝を述べ,音楽と踊りを見せる。そういう戸別訪問の芸が,おおぜいの客を前にして行う掛合いの芸に変わって流行するのは,明治も末近くになってからのことで,玉子屋円辰(たまごやえんたつ)(1864-1944)が大阪の天満天神のわきの常打小屋にかけたのが始めである。円辰は祭り好きの卵売りで,村の盆踊で櫓に登って音頭取りをし,合間に即興のこっけいなせりふを入れることでヒントを得,新しい掛合い芸をつくる。江州音頭,河内音頭のいいところをとって彼の話芸は育った。この話芸を継いだ砂川捨丸(1890-1971)は,話の中に今起こったばかりの時事問題をおり込んで芸域を広げ,寄席にかけた。相方(中村春代)には,これまでの鼓(これは万歳からの受継ぎ)に代えて,三味線を持たせた。日露戦争の終わったころから〈万才〉と呼ばれたこの掛合い芸は,大いに流行した。大阪や神戸のような新興の大都会には,農村から流入した人々がおり,盆踊の音頭から受け継いだ話芸は,郷愁をさそった。大正末に吉本興業が万才に目をつけて,その傘下の寄席にかけ,明治末には落語,大正に入ってからは安来節がおもな演目であったのを,昭和に入ってからは万才をおもな演目とした。

 1931年の満州事変のころから戦争の進行にともなうさまざまな風俗の変化をおり込んだ掛合い話芸が人気を集めた。落語や講談と違って万才は形の決まらない即興の話芸であり,その不定形の様式が,この時代に万才の発展した原因である。そのように万才の様式を使い慣らしたのは横山エンタツ(1896-1971)であり,彼が相方の花菱アチャコ(1897-1974)との掛合いですでに手がかりをつかんでいた話芸の芽をさらに大きく伸ばしたのは,朝日新聞大阪本社の白石凡(1898-1984)が,彼を秋田実(1905-78)に引き合わせたのが機縁となっている。秋田実は大阪生れで,東京大学中国哲学科に在学中,日本労働組合全国協議会傘下の機関誌部に入り,非合法の活動に加わった。同時にやわらかい文章を雑誌に発表し,これが寄席の常連で万才好きの白石の目にとまり,彼をブレーンとして,横山エンタツの話芸が立枯れしない条件をつくろうと思い立たせた。秋田はすでに左翼活動から転向しており,民衆の生活実感にそって無邪気な笑いを誘うさまざまの糸口をくふうした。思いついた軽口を,寄席のはねた後にせりにかける方法をとったこともある。左翼活動の盟友で,同じく転向した大阪生れで東京大学美術史科出身の長沖一(まこと)(1904-76)をさそって,ともに吉本興業に身を寄せた。このころから新しい掛合い話芸は,鼓や三味線から離れ,衣装も洋服に変え,しゃべくりひとすじとなり,漫画や漫談とならんで1934年から〈漫才〉と表記されるようになり,寄席プログラムにのった。大阪言葉を土壌として育った漫才は,吉本興業の寄席チェーンを通して東京にも進出し,またラジオを通して全国に広まり,雁玉・十郎をはじめ,ワカナ・一郎,ダイマル・ラケット,蝶々・雄二,いとし・こいし,東京では,一路・突破,千太・万吉,トップ・ライトなど多くの人気者を生んだ。大阪弁にもとづく実利本位の考え方が漫才を通して全国のファンを魅了したということでもある。各地で演ぜられる漫才は,秋田実,長沖一の蓄えた笑いの大きなカタログを持つことによって枯渇せずに続き,戦時期には戦線慰問の演芸団にくみ込まれたりしたが,戦況が深刻になるにつれ,政府は漫才の掛合いの自由な発展を喜ばなくなった。こうして漫才は,戦争の末期には消えていく。復活するのは敗戦後であり,テレビを通して〈ザ・マンザイ〉と新しく記されるように,外来語をふんだんに交えたテンポの速いやりとりに発展する。
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百科事典マイペディア 「漫才」の意味・わかりやすい解説

漫才【まんざい】

寄席演芸の一つ。おもに2人が掛合でおもしろおかしく話すもの。この形式は万歳を背景として明治中期ころ関西に現れ,日露戦争終結のころから〈万才〉と呼ばれて次第に盛んになり,大正末期には吉本興業が万才を寄席にかけるようになった。1934年から〈漫才〉の文字が使われ始め,大阪の横山エンタツ・花菱アチャコのコンビの出現によって全国的に愛好されたが,その要因として台本を手がけた秋田実の役割も大きい。ほかに大阪の雁玉・十郎,ワカナ・一郎,ダイマル・ラケット,いとし・こいし,東京の千太・万吉,トップ・ライトなどが人気を高めた。1970年代以降はやすし・きよしがテンポの速いやりとりで支持を得,1980年代に入るとテレビ番組によって〈漫才ブーム〉が起き,ツービート(北野武参照)らが活躍した。
→関連項目寄席

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「漫才」の意味・わかりやすい解説

漫才
まんざい

寄席演芸の一種。2人で一組になり,滑稽な話題を掛合で聞かせるもの。正月に家々を訪問して歩いた「万歳」から発展した。大正末期から昭和の初め頃大阪の寄席で盛んになり,以後全国に広まった。社会風刺や音曲などを交えるものもあり,内容は多種多様であるが,寄席だけでなく映画,テレビ,ラジオなど多方面で人気を得ている。

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世界大百科事典(旧版)内の漫才の言及

【掛合】より

…また民俗芸能,寄席芸能などに掛合があり,前者は古代の歌垣(うたがき)の掛合のなごりである。また後者は万歳の掛合の影響で,漫才の母体となった。【長尾 一雄】。…

【大衆演芸】より

…大劇場で行われる演劇(いわゆる大衆演劇,商業演劇)とは一応区別して,主として寄席演芸のような大衆性をもつ芸能をいう。落語,講談,浪曲,漫才,奇術などは大衆演芸の代表的なものである。大衆演芸は,あくまでも広く一般の民衆に親しまれ,支持されるものでなければならないだろう。…

※「漫才」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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