漆工芸(読み)うるしこうげい

改訂新版 世界大百科事典 「漆工芸」の意味・わかりやすい解説

漆工芸 (うるしこうげい)

器物に漆を塗り,その上に蒔絵や漆絵などの加飾をほどこした工芸。漆器は日本,中国,朝鮮,台湾,タイなどで産出し,その国の風土に適した技法が発達した。とくに日本の漆工芸は中国の強い影響を受けながら独自の発達をし,国際的にも認められ,西洋ではジャパニングの名でも呼ばれている。

漆は生漆(きうるし)と精製漆に大別される。生漆は漆下地,麦漆(むぎうるし)(生漆に小麦粉を混和したもの),拭漆(ふきうるし)などに用いられ,常温で乾固させる。精製漆は,生漆を攪拌して漆を均一にする〈なやし〉,太陽熱などを利用して漆の水分をとり粘稠(ねんちゆう)性をもたせる〈くろめ〉という工程を加えたものである。こうしてつくられたものを透漆(すきうるし)というが,これに鉄分を加えると黒漆になる。黒漆は無油の呂色漆(ろいろうるし),有油の塗立漆(ぬりたてうるし)がおもなもので,透漆は無油の木地呂漆と有油の朱合漆が主である。古代の日本には灰墨を入れた黒漆と天然染料を入れたと思われる透漆があった。漆の化学的分析は1880年ころ,石松決,吉田彦六郎らによって先鞭がつけられたが,三上喜三郎は日本産漆の主成分をウルシオールと命名,真島利行はその化学式C21H32O2を決定し,1924年《漆の研究》にまとめた。戦後の漆の研究は通産省工芸指導所東北支所での研究を経て,電子顕微鏡等による漆特有の耐久性の解明や,赤外線分光器等による古代漆状物質の同定などの研究が進んでいる。

素地(きじ)となる材料には,木,布(乾漆),皮(漆皮),竹(籃胎(らんたい)漆器),紙(一閑張),金属,陶器,プラスチックなどがある。木には板物(指物)としてヒノキ,ケヤキ,アテ(輪島塗),アスナロ(春慶塗),ホオ(会津塗),カツラ(鎌倉彫)などがあり,挽物用としてケヤキ,トチ,ブナなど,曲物用としてヒノキ,カツラなどが用いられる。最近は合板の利用も多い。

 漆の乾燥には漆風呂(箱)が必要で,その内部は水拭きされ適当な湿度が保たれる。塗りむらを防ぐ回転装置を内蔵するものもある。そのほか刷毛(はけ),篦(へら),定盤,漆師小刀,油壺,角粉(つのこ)盤などが必要である。

 彩漆(いろうるし)用の顔料はおもにレーキ顔料で,ほかにチタンホワイト,本朱,べんがら,石黄,松煙などが用いられ,樟脳(カンフル)は溶剤として江戸時代から用いられた。素地の形を修補し堅牢にするために下地工程が重要であり,これには刻苧(こくそ)綿とか木粉,布着せ用麻布,地粉(じのこ)(土を焼いた粉),砥粉,こし紙,砥石,水ペーパー,漆研磨用炭(朴炭,椿炭,静岡炭,呂色炭),角粉などが使われる。

漆を塗ることを髹漆(きゆうしつ)といい,もっとも一般的な施工は次のとおりである。(1)素地に生漆を薄く塗る,(2)刻苧をはぎ目に充塡する,(3)麻布を貼る,(4)漆地粉(地粉に水と生漆を混合したもの)をつける,(5)切粉(地粉と砥粉の混合)に水と生漆を混ぜたものをつける,(6)漆下地(砥粉に水と生漆を混ぜたものを塗る),(7)砥石で水研ぎする,(8)生漆を薄く塗る(下地固め),(9)黒漆で下塗りし水研ぎする,(10)中塗り,水研ぎ,(11)上塗り。本堅地塗はこの方法をさらに複雑にしたものである。なお,上塗りは花塗(塗立てともいい,研ぎ出さない)と呂色塗(磨きを加える)に大別される。塗りの種類は多く,溜塗(赤い漆の上に透漆をかける),白檀塗(箔または金地の上に透漆をかける)などのほか,春慶塗,赤漆,変塗(かわりぬり)がある。なかでも変塗は材料や技法の種類が多く(数百種),江戸時代に刀の鞘の塗りにほどこされて発達したので鞘塗ともいわれる。そのうちには地方漆器の特色ある塗りとして伝えられているものもある。おもなものには青海波塗,津軽塗,竹塗,七子塗,紫檀塗,石目塗がある。

 加飾法には蒔絵沈金螺鈿(青貝),彫漆,箔絵,錆絵(さびえ),漆絵蒟醬(きんま),平脱(平文(ひようもん)),堆錦(ついきん),密陀絵などがある。それぞれ,時代や地域によって多くの種類が生み出された。蒔絵には平蒔絵,研出(とぎだし)蒔絵,高蒔絵,消蒔絵,梨地,沃懸地(いかけじ)などの技法がある。沈金は漆面を線刻し金箔を埋めたものである。螺鈿には厚貝と薄貝があり,文様に切って漆地に貼るか嵌装する。彫漆は彩漆を厚く塗り重ねて文様を彫出する(堆朱,堆黒など)。密陀絵は一種の油絵である。
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中国で漆工芸の始まった時期がいつかは確認することができず,《韓非子》は舜の時代にすでに漆器が製作されていたと伝えているが,伝説の域を出ない。これまで周代以前の漆器は明確な軌跡をたどることができなかったが,1973年河北省藁城県台西村の商代遺址から黒漆と朱漆を併用した漆器の残片が出土し,殷代までさかのぼって確かめられるようになった。中国では,ウルシは現在の内モンゴル,新疆ないし青海省といった辺境の地方をのぞくほぼ全土に自生していたようである。ところが遺品をみるかぎり,漆器の産地はかなり限定されており,しかも時代によって移り変わっていた形跡がうかがえる。

古代に漆工芸のもっとも栄えた時期は戦国(前5世紀-前222)・漢(前206-後220)の両時代で,ことに湖南省や四川省といった長江(揚子江)流域をおもな舞台にして,積極的に製作活動が展開された。とくに馬王堆漢墓に代表される湖南省の長沙周辺からはおびただしい数の漆器が出土し,この地は四川省の蜀郡などとともに当時の漆工芸の中心地であった。漆芸品の応用範囲はじつに多岐にわたり,この時期の大きな特徴にもなっている。弓,箭,刀鞘,楯などの武器類はもとより,盤,耳杯,勺といった飯食器,奩(れん),硯箱,案などの調度・文房具,琴,笛といった楽器など,日常生活に必要なあらゆるものに及んでいる。製作された漆器のほとんどは彩漆を塗りほどこしたいわゆる漆絵の作品である。その多くは朱と黒の2種類の漆を用い,それらを巧みに塗りわけ,もしくは朱漆で文様を描いたものであるが,なかには黄,緑,青などの彩漆を用いてていねいにつくりあげた鮮やかな作品もみられる。そのほか,この時期に流行した特殊な技法に刻画がある。漆塗りの地に文様を針刻してあらわすこの手法は,おおむね前漢後期から後漢初めにかけて集中的に行われたようである。これはのちに盛行した鎗金(そうきん)の技法にひとつのヒントを与えたものとして注目される。ことに漢代の漆芸で特筆されることは,漆器が広く普及したことである。漆器は広大な漢帝国の版図全域に流布したにとどまらず,アフガニスタンベグラームにまで伝えられている。さらに漢の植民地であった朝鮮半島の楽浪郡からは大量の漆器が発見され,それらは中国古代の漆芸研究に大きく寄与している。

 つづく三国~南北朝の時代(220-581)はたび重なる戦乱の世であり,その影響のせいか漆芸活動はさほど活発ではなかったようである。少なくとも,それと比定される遺品はきわめて乏しく,このおよそ360年間における漆工芸の動向についてはその詳細を知ることはできない。

 唐代(618-907)に入ると漆工芸は息を吹きかえし,これまでになく華やいだ様相を現出した。国際色豊かな時代の特性を反映して,螺鈿,平脱などの象嵌技法を自在に駆使した華麗な作品をぞくぞくと生み出した。西方に起源がもとめられる琵琶,箜篌(くご),阮咸(げんかん)などの楽器や鏡には,螺鈿をはじめ琥珀(こはく),水晶,瑪瑙(めのう)などのさまざまな貴石が随所にちりばめられ,豪奢な雰囲気をつくり出しており,これらは正倉院の伝世品にみることができる。しかしこれらとは別に,器体に加飾をいっさいほどこさず,漆を塗りほどこしただけの無文漆器が併行してつくられていたことは刮目(かつもく)に値する。簡素なつくりの無文漆器は装飾性に欠けるため見過ごされがちであるが,この種の漆器が人々の実生活にかなったものとして以後の長い時代を通じて連綿と製作されつづけたことを思えば,これこそ中国の漆工芸の本流をなしていたといっても過言ではない。

宋代(960-1279)に入ると,漆工芸の世界はがらりと変容する。唐代のあでやかで驕奢なものとは異なり,清楚で端正なおもむきのある作品が江蘇省,浙江省といった長江流域の地方でつくられるようになった。とくに盛行したのは無文漆器と彫漆である。無文漆器は最盛期を迎え,その器形の美しさは他に類をみない。陶磁器や金工品などもそうであるが,この時期の器物の形にはひきしまった緊張感が漂っており,工匠たちの器形の追求におけるひたむきな姿勢がよくみてとれる。器体に漆を幾層にも塗り重ねたのちに,刀で文様を彫りあらわす彫漆の技法が少なくとも唐代にすでに存在していたことは,A.スタインが中央アジア東端に位置するミーラーンの城塞址で発見した甲札の断片によって認められる。しかし彫漆の成熟した高度な技法が存分に発揮されるようになったのは宋代からである。この時代に好んでつくられた彫漆はおおむね堆朱,堆黒,犀皮(さいひ)の3種類であり,とりわけ犀皮の製作時期は宋代に限られるものとして注目される。黄色と朱の2色の彩漆を交互に4回ないし5回塗り重ね,最後に黒漆を塗って唐草風の文様や幾何学的な文様を整然と彫りあらわした犀皮の作品はきわめて少なく,世界中で10点の遺存を数えるにすぎない。

 宋代の製作活動は元代(1271-1368)へとひきつがれ,飛躍的に展開した。元代の漆芸品には生命力のみなぎった力強さが横溢しており,異民族の支配者を迎えたこの時代の趨勢をよく反映している。そのおもな漆器として,無文漆器,螺鈿,鎗金,そして堆朱,堆黒,屈輪(ぐり)などの彫漆があり,それぞれに特色ある作風をみせている。無文漆器では宋代と異なり,楕円の十二花形など珍しい器形の作品も製作されている。また,注目されるのは記録類に工人の名前が残されることである。彫漆では,浙江省の嘉興府に住した張成と楊茂が名品をつくり,鎗金では彭君宝が同じ嘉興で活躍し,また杭州でもすぐれた作品が製作された。日本にも早くから舶載され,広島の浄土寺光明坊,福岡の誓願寺などに伝世している。この時期の螺鈿は唐代のような夜光貝などを用いた厚貝の手法とはちがい,アワビなどの貝を薄く切りすかし,その貝片を器面に置いて,その上に漆を塗りかけ,貝片上の漆を剝ぎ起こしなどして文様をあらわした,いわゆる薄貝法によるものである。この技法は元代に急速に発達し,江西省の吉安府を中心として精力的に製作された。その繊細巧緻な技法は高い完成度を示し,《竜濤螺鈿稜花盆》(東京国立博物館)などが代表作である。

明代(1368-1644)は漆工芸のあらゆる技法が出そろい,しかもそれらが一様の発展をみせた時代であり,きちんとした管理体制をもつ官営工場も設立された。流行に関係なく,この時期をとおしてつくられた堆朱は,とくに永楽(1403-24),宣徳(1426-35)の両期にみごとな作品がみられる。彫漆のうち顕著なものに彫彩漆と堆黄がある。彫彩漆は古くから日本で〈紅花緑葉〉と呼ばれたが,朱,緑,黄といった彩漆を交互に塗り重ね,文様にしたがって,たとえば花を紅,葉を緑というぐあいに彫りわけてあらわしたものをさす。この技法の創始期ははっきりしないが,室町時代の《君台観左右帳記》の彫物の条に述べられており,このころには日本に渡来していた。いずれにしても彫彩漆のきわだった展開は嘉靖期(1522-66)ごろからといってよく,着色絵画のおもむきをもつその作品は,以後の隆慶(1567-72),万暦(1573-1619),ひいては清代にいたるまで製作されつづけた。堆黄は万暦期に製作された彫漆の一つで,器体全面に朱漆を塗り,その上に黄漆を厚く塗り重ねて文様を彫りあらわす。現存の作品をみるかぎり,文様にはおしなべて五爪の竜があらわされている。作品はともに作風を同じくし,そのほとんどに干支の入った八字の刀刻塡金銘がほどこされている。このことはオフィシャルな作品であることを示しており,黄色が当時皇帝を象徴する色であったことを思えば,いっそううなずけるであろう。堆黄は万暦期を過ぎると突如として終わってしまったようである。明代に盛行したもう一つの技法に塡漆がある。日本では一般に存星(ぞんせい)といわれている。器面全体に比較的厚めに漆を塗り,文様を刀で彫り,そこに彩漆をうめて研ぎ出したもので,製作年代が宣徳期ないしはそれ以前といえる作品は5点にすぎない。この手法は宣徳期を過ぎると一時途絶えたようで,嘉靖期に入って急激に再興し,明末の万暦・崇禎(1628-44)期をへて清代に踏襲されていった。

 清代(1616-1911)の漆芸全体を通していえることは,作品の器種,器形が多種多様なことである。これまでにはない変化に富むさまざまなものがみられ,それは同時代の陶磁器など他の工芸品などとともに清代工芸のひとつの特徴である。いちじるしい展開をみせたのは彫漆,螺鈿,塡漆,漆絵などである。なかでも螺鈿に独特の手法がみられる。その特色は貝片にあり,アワビやシジミなどの貝の貝片は紙よりも薄いといわれ,色とりどりの貝片を寄せ集めてあらわした文様はまるで絵画を思わせる。この様式は康煕年間(1662-1722)に確立され,オフィシャルの世界のみならず民間にも広く流布したが,工匠では江千里や呉岳楨などが著名である。清代でいちだんと漆工芸が栄えたのは乾隆帝(1736-95)の時で,堆朱,堆黒,彫彩漆などの彫漆,存星,漆絵といった漆芸技法がそろって行われた。またこの時期は日本の蒔絵の手法に倣った作品がつくられるようになり,彼我の漆芸技術の交流を如実に示している。

朝鮮半島では楽浪郡遺址からおびただしい漆器群が発掘されているが,これらはいずれも中国漢代に四川省などでつくられたものである。独自の漆工芸の創始された時期は判然としないが,近年の発掘によって,楽浪郡出土の漆器とは別種のもので,紀元前にまで製作期がさかのぼりうる漆器が断片的に発見されており,中国や日本と同様に,朝鮮でも早くから漆工芸の活動が行われていたことが予想される。しかし顕著な漆器製作の活動の開始は三国時代(350ころ-668)に入ってからといえるであろう。とくに慶州を拠点とした新羅では,百済,高句麗にくらべいちだんと活発に展開され,慶州の路西里や路東里周辺に散在する金冠塚,金鈴塚,飾履塚,瑞鳳塚,壺杆塚,銀鈴塚,天馬塚などの古墳からは多くの遺物とともに漆器が出土している。これらの漆器には密陀絵と思われるものも含まれているが,漆絵の作品が中心となっており,この時代にはまだ他の加飾技法はあまり用いられなかったと想像される。次の統一新羅時代(668-935)の漆芸は,雁鴨池(がんおうち)から多くの漆器類が出土して,これまで以上に明らかになったが,注目されるのは平脱の作品が存在していることである。平脱は中国で少なくとも唐代に完成されたと考えられる手法の一つで,のちに日本にも伝えられて貴紳にもてはやされたものである。雁鴨池の作品は金平脱ではなく銀の薄板をつかった銀平脱であるが,こうした一種の華やかさをもつ装飾技法が唐から直接新羅にもたらされたことは,この時期の中国と朝鮮半島との漆芸交流の一端を物語っている。

 漆工芸がきわだった展開をみせ,水準の高い作品が生産されるのは高麗時代(936-1392)といってよいであろう。《高麗史》には螺鈿漆器が官営工場で製作されていたことが記述されており,現存作品からも螺鈿作品がさかんにつくられていたことが理解される。これらは技巧を凝らした作品であり,そのすばらしさは中国北宋代の徐兢が12世紀前半に著した《宣和奉使高麗図経》に〈螺鈿之工,細密可貴〉と記されている。螺鈿法はよほど好まれたようで,化粧道具などから経箱にまで応用され,1272年には経箱をつくるための役職がもうけられたほどである。高麗時代の螺鈿には玳瑁(たいまい)貼(タイマイ)の法を併用したものがある。遺作をみるかぎり,この玳瑁貼の法はそれ自体としてはほとんど独立して扱われずに螺鈿法と併用したようで,作品が奈良の当麻寺や京都の桂春院などに伝存している。このほか見すごしてはならないものに紙胎の作品がある。日本では一閑張と称しているものであるが,数枚の紙を貼り合わせて素地をつくり,それに漆を塗りほどこしたものである。上手のものではないが,この種のものはしきりにつくられていたようで,遺品には化粧道具のようなものが多く,なかには黒漆の面に朱漆で文様を描いた比較的ていねいな作風のものもみられる。これらは螺鈿器にくらべ当然廉価であり,民衆と密着した漆工芸品として存在していた点に注目したい。

 李朝(1392-1910)は朝鮮の王朝のなかでもっとも長い統治年数をもつが,そのわりには漆工芸にめだった活動はみられないようである。その主流は高麗時代同様に螺鈿にあったが,新たに割貝法と呼ばれる手法が登場して,高麗の螺鈿とはおよそかけ離れた調子を示し,以後の螺鈿の本流となったことが目をひく。とくに厚貝を用いて製作された螺鈿器は,のちに日本の螺鈿にも強い影響を及ぼした。また高麗時代に螺鈿と併用されていた玳瑁貼の法が独立した技法として器物などを装飾するようになったことも,この時期の特徴の一つといえよう。そのほか,李朝期全般を通じて製作された紙胎の漆器では,高麗時代の紙を貼り合わせたもののほか,紙撚(こより)で素地をつくり,その上に直接漆を塗りかけた作品が製作されるようになった。これには鉢,盤,盒子(ごうし)など器物をかなり大ぶりにつくったものがみられ,この種の漆器がますます民衆の生活に即した日常用品として深く浸透していたことが知られる。いま一つ,特記されるものに華角(かかく)貼がある。牛や水牛の角(古くは馬の爪も用いた)を煮沸して柔らかくし,薄く切って長方形の板状にしたのちに,文様を彩色であらわして器体に貼りつけたものである。描かれた絵にはどことなく飄逸さがみられ,親しみを感じさせる。人々の趣向にかなったらしく,今日までひきつづき製作されている。
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日本の漆工芸は諸工芸の中でももっとも古いものの一つと考えられ,縄文時代の鳥浜貝塚(福井),寿能遺跡(埼玉)からは前5000年ころの漆器が出土している。その技法はすでにかなりの水準に達し,寿能遺跡出土品は朱塗を2回ほど重ね,表面には手ずれもみられた。縄文晩期までくだると亀ヶ岡遺跡(青森),是川遺跡(青森),山王遺跡(宮城),寺地遺跡(新潟)をはじめおもに東北地方の遺跡から漆器の出土が多い。籃胎の櫛や鉢,木の弓や装身品,樹皮,貝や獣骨などに漆が塗られ,技法的にも格段に進歩し,種類も豊富になる。籃胎漆器の技術は,竹を編んでボディをつくり塗漆する方法で,この時代の独創的技法である。

 弥生時代に入ると,前代にみられた多様な技法はほとんど継続された形跡はない。木工技術は前代に比して格段の進歩を示し,木工の時代といわれるにもかかわらず,漆工技法の継承的発展が跡づけられないのである。この時代はこうした技巧的な形体の木工品に塗漆された。安満遺跡(大阪)の櫛や西念・南新保遺跡(石川)の朱塗の高杯,土生遺跡(佐賀)の杓子などに示される造形的な技術はみごとである。古墳時代は黒漆の時代といってよい。土保山古墳(大阪),七廻鏡塚古墳(栃木),大塚山古墳(福島),松林山古墳(静岡)等,漆器を出土した古墳は多数ある。遺品は日用品のほかに武具が多く,弓矢とともに漆塗の短甲もみられる。七廻鏡塚古墳出土品には数種の漆が認められ,松林山古墳の剣の柄には紐巻の上に粗い漆地粉が塗付されている点が注目される。逆U字形の黒漆塗櫛は全国から出土する。この時代の遺品には朱漆はなく,大塚山古墳出土品の靱に代表されるような塗漆の上に朱彩がほどこされるのがふつうである。

飛鳥時代になると《日本書紀》に百済からの造仏工や鑢盤博士の来日が記されているが,彼ら新技術者の活躍が日本文化の基礎を築いたことは間違いない。漆芸の世界でもそれまでのささやかな伝統は圧倒され,今までとはまったく異質でしかも高度な技術と置き換わった。その記念碑的作例が《玉虫厨子》であろう。素地に直接漆を塗り重ねて外観を整え,朱漆と密陀絵で仏画や忍冬(にんどう)文が描かれる。漆絵と密陀絵の技法はすでに漢時代からあり,この絵の意味するところは大きい。飛鳥から奈良時代にかけての新技法の一つに漆棺があり,(1)塗漆棺,(2)𡑮棺(そくかん),(3)籃胎棺,(4)塗漆石棺,(5)塗漆陶棺の5技法が知られる。(1)は木に漆を直接塗ったものと麻布を貼って塗漆したものとがあり,高松塚(奈良)出土木棺は後者にあたる。(2)では,麻布を数十枚貼り重ねて漆でかためたものに牽牛子塚(奈良)出土棺があり,絹布に漆地粉を交互に重ねたものに安福寺蔵品がある。(3)は三つ編の太い紐を箱形に編み上げて漆を塗ったもので,塚穴山古墳(奈良)出土の例がある。(4)は家形石棺の内部に漆を厚く塗り重ねたもので,菖蒲池古墳(奈良)棺がある。(5)は家形陶棺の内外に漆を塗ったもので,御坊山古墳(奈良)棺がある。漆棺は畿内に限って十数例出土したが,八幡山古墳(埼玉)から(1)の形式の断片が発見され注目された。漆棺の製作年代は620年ころから680年ころまでとされるが,技法の多様性と熟練度から奈良時代漆芸の中枢をなすものである。

 正倉院の漆芸遺品は唐代文物の新たな伝来を物語ると考えてよい。そこには𡑮,漆皮(しつぴ),平脱(平文(ひようもん)),螺鈿,赤漆,密陀絵,末金鏤(まつきんる)などが含まれ,それぞれ高度の技術水準を示す。螺鈿は正倉院以外で伝世したものはなく,末金鏤(蒔絵)は中国でも確たる例をみない。𡑮(乾漆)は正倉院には花形小皿1個しかなく,法隆寺献納宝物のうちに𡑮鉢がのこされる程度で,工芸品には広く応用されなかったらしい。しかし仏像や伎楽面には𡑮の秀作が多数のこされている。またこの時代に特徴的な黒褐色の緻密な漆地粉や不透明で赤褐色の花漆などの髹漆(きゆうしつ)法は後世に伝承された形跡がない。正倉院にみられた多様な技法がどのように受け継がれたかは興味ある問題であるが,必ずしも明らかではない。その中で注目すべきは当麻寺の《当麻曼荼羅厨子》を装飾する金平文で,奈良時代最末期か平安初頭に製作されたと思われ,日本製である。厨子は全体に塗漆され,柱や天井には金銀泥絵,軒板17枚には金平文による花喰鳥と飛天文の痕跡がみられ,できばえは正倉院の平文をしのぐほどである。この例は唐代の平脱(平文)技法が日本に継承されたことを伝えるが,9世紀に流行した平文もその後衰え,貼付平文のような安易な姿に堕していく。平安時代漆芸の主流となる蒔絵は9世紀にはまだ十分開花せず,10世紀になって急速に流行する。11世紀には器形や文様の和様化が進み,螺鈿も同化して世俗的な作品が多くつくられる。沃懸地(いかけじ)は螺鈿と組み合わされて,平等院や中尊寺金色堂など建築の装飾にまで応用される。平文が蒔絵と組み合わされて復活するのは13世紀以後である。

 《延喜式》には平安時代の調度の施工の実際が記される。例えば赤漆の材料には漆と荏油(えのあぶら)が,黒漆塗には漆と掃墨(はきずみ)と布着せ用の貲布(さよみ)が,朱塗には漆と朱沙と貲布と掃墨,小麦などが準備されたことがわかる。塗漆は初漆,中漆,花漆を1回ずつ行い,1日ずつ乾かすことが指示されている。また,すでに漆絵も行われている。興味深いのは年貢に漆器があてられていることで,地方産地の充実もうかがえる。平安時代には朱漆器は非常に貴重で,宮中の宴では参議以上にのみその使用が許された。また《源氏物語絵巻》などによって,貴族の住宅内で多くの漆器が用いられ,棚や厨子,脇息,鏡台,手洗,台盤などが置かれたことがわかる。調度類の遺品は少ないが,《雑伎絵(ぞうぎえ)唐櫃》(MOA美術館)は赤漆で塗られ,春日大社古神宝類の《黒漆平文唐櫛笥》《根古志形鏡台》なども当時の様式を伝える。《類聚雑要抄》は櫛筥二合分として木工や置口の単価とともに螺鈿料千三百十六疋をあげ,それと別に掘料や埋込料,入玉料を加算している。他に蒔絵粉用の金や漆も計上し,その磨料までのせる。興味深いのは掘料,埋込料に比して螺鈿が特別高価なことである。漆はまた寺院の装飾にも用いられた。法成寺の結構のさまは《栄華物語》で知られるだけであるが,平等院には平塵地螺鈿の須弥壇がのこされ,中尊寺金色堂の内外は黒漆塗に金箔が押され,内陣は沃懸地螺鈿で荘厳されている。

鎌倉時代にも寺院内装における漆施工は引き続き行われており,柱や来迎壁などを漆地とする例は多い。石山寺多宝塔,西明寺(滋賀)三重塔,法界寺(京都),称名寺本堂などがそれである。同時に厨子,須弥壇,礼盤,案,磐架,灯台なども多くは黒漆塗され,螺鈿が嵌装されることも少なくない。一方,この時代は平安以来の朱漆器尊重の伝統が大きく転換した時代でもある。地方豪族や大寺院,官衙(かんが)の経済的自立が自給自足を促し,漆器も生産されるようになった。《春日権現験記》や《慕帰絵詞》には高杯や懸盤,鉢などの朱漆器が描かれ,朱漆器はかなり一般化してきた。これらの朱漆器は根来(ねごろ)塗と称されるが,その名は近世以降流布した名称であり,紀州根来寺での当時の漆器生産の実際がどのようなものであったかはっきりと確認されていない。根来塗の技法は黒漆の下塗りに朱漆をかけた簡易なもので,形体も武骨で単純なものだけに長年の常用に耐える堅牢さをもっていた。職人技を必要としないプロセスが,寺院や官衙での生業を可能にしたのである。永仁6年(1298)銘の練行衆盤は代表的遺品である。また漆器盛行のありさまは出土漆器からもうかがえる。鎌倉市内から出土した多量の漆器類のうち,椀類にほどこされた漆絵は機智に富んだものが多いが,その中にハンコ絵があるのは今まで知られなかった事実である。鎌倉時代の蒔絵は平蒔絵,高蒔絵などが発達し,螺鈿,平文もそこに加わって前代以上に華やかなものとなった。とくに螺鈿鞍などにみる螺鈿技術の向上は驚くべきものがある。これらの螺鈿器は宋朝に贈られて賞賛されたが,日宋貿易によって彼地からの螺鈿,堆朱などの輸入も始まった。

 室町時代は宋・元から輸入された唐物への傾倒はきわめて強く,足利将軍家の座敷飾のようすを記した《君台観左右帳記》によれば,主要なものはすべて唐物で占められた。舶載された漆器には前代から続いて堆朱,鎗金(沈金),犀皮(さいひ),桂漿(けいしよう)などがあり,これらの新技法が日本の漆芸に及ぼした影響は大きい。堆朱からは鎌倉彫が興り,《牡丹大香合》(南禅寺)はその早い遺品である。〈紅花緑葉〉を模したものには《椿彫木彩塗笈》(福島県示現寺)がある。根来塗もさかんにつくられたが,形体は唐物からとったものが多い。当時の工人は職能を持った自由人として社会的にも独立し,歌合や職人歌合絵に描かれるほど市井化した。《七十一番職人歌合》に塗師が登場するのは興味深い。将軍義満,義政は金閣,銀閣を建てたが,金銀箔の貼付けには本格的な漆塗装工事が必要であり,当時それを賄う大きな組織があったことが考えられる。またこのころから幕府御召の職人が出現し,堆朱では堆朱楊成,蒔絵では幸阿弥家や五十嵐家が勃興した。

1585年(天正13)の豊臣秀吉による紀州根来寺征伐は日本漆芸史の上で大きな意味がある。寺内で漆工に従事していた僧侶が地方に四散し,その地に漆産業を興したといわれるからである。中央では織田信長につづく秀吉が豪華絢爛たる様式を好み,黒漆地の大画面に映える蒔絵が室内装飾に大胆に用いられた。安土城はのこらないが,都久夫須麻神社本殿(滋賀)や高台寺霊屋(京都)に往時をしのぶことができる。

 江戸時代には各藩の殖産政策も手伝って地方の漆産業が徐々に発達し,技法的に特徴ある漆器を産出した。津軽塗,南部椀,会津塗,朽木盆,桑名盆,吉野椀,春慶塗輪島塗,城端塗,大内椀,象谷塗(玉楮象谷(たまかじぞうこく))などのほか,沖縄でも日本や中国の影響を受けて独自の漆産業が発達した。また江戸でも谷田塗(谷田忠兵衛)や陰光(いんこう)塗などが創案された。富裕町人層の経済的進出によって漆器の需要が高まり,武士は自分の持物にそれぞれの奇を競った。鞘塗には絞漆による青海波塗,錆漆による桜皮塗,粟,菜種,刻煙草,棕櫚などを蒔きつけた虫喰塗,炭粉を蒔いた石目塗などのさまざまな技巧がみられる。《百工比照》は変塗(かわりぬり)の見本も含めた当代工芸技術の集大成である。日光東照宮は木工,金工,漆工,彩色などの技法を駆使した総合芸術であるが,創建当初から豪華をきわめたものでなく,しだいに加飾が増して今日の姿になったといわれる。陽明門をはじめ諸堂にほどこされる塗漆,彩色などの保存には多大の労力が費やされて今日に至っている。1650年(慶安3)幕府に細工所が置かれ,幸阿弥家,古満家,梶川家が仕えた。この時代の蒔絵は創作技法よりも伝統技法をさらに技巧的なものに完成させたが,逆に高い芸術性は失われた。京都では塩見政誠,山本春正,金沢では五十嵐道甫,江戸では小川破笠,飯塚桃葉,原羊遊斎らが活躍している。印籠や杣田(そまだ)細工,密陀絵などに時代の特徴が強くうかがえる。

維新直後は混乱と西欧化の風潮で旧来の工芸は顧みられず,庇護者を失った工芸家は困窮したが,1873年のウィーン万国博覧会への出品と成功をきっかけに,新政府は工芸品の輸出に力を注いだ。翌74年には起立工商社が創立され,当時の名工が集められて製作にあたった。89年には東京美術学校が開校し,以後多くの人材がここで育った。また1900年には帝室技芸員の制が定められ,作家の奨励援助に役立った。こうした中で新しい意匠や作風の意欲的な製作も行われたが,技術面では江戸時代の継承にとどまったといえよう。古満家の流れをくむ柴田是真,池田泰真,幸阿弥系の川之辺一朝,白山松哉などがおもな蒔絵師であり,六角紫水は蒔絵と漆絵のほかに彩漆の研究や漆工芸の歴史的研究に大いに貢献した。明治期にはとくに彩漆の研究がさかんに行われ,多年の願望であった白漆用のチタンホワイトやレーキ顔料が発明された。1927年帝国美術院に工芸部門が置かれ,工芸の出品がかなえられた。51年には文化財保護法が制定され,伝統工芸技術の保護育成が制度化し,55年以降日本伝統工芸展を通じて伝統的だが新しい感覚の作品が次々と発表された。おもな蒔絵師に赤塚自得(1871-1936),植松包美(1872-1933),松田権六らがあげられる。

ヨーロッパにおける東洋の工芸品の模倣はすでに14世紀に始まったが,17世紀に入るとおもにオランダの東インド会社を通じて日本や中国の漆器が陶磁器とともに西欧にもたらされた。需要は高く,1610年にはオランダで漆器会社が設立され,ジャパニングと呼ばれる西欧模倣漆器が多量に製作され,イギリス,フランス,ドイツ,スウェーデンなどに広まった。応用範囲は工芸品から室内装飾にまで及び,1616年にはコペンハーゲンのローゼンボー宮内に室内を塗漆した〈シナ室〉が完成した。イギリスでは女学校でジャパニングを教えるほどになり,1688年J.ストーカーは《ジャパニングおよびワニシング論》を発表,これによると基本色は白,黒,青,赤,栗色,オリーブ色で,素材は本来の漆ではなくインド産のシェラックを使用し,油彩を併用している。フランスでは18世紀初めに王家御用職人の肩書をもつG.ダグリがパリにジャパニングのアトリエを開くなど,ヨーロッパに流行したジャパニングは,東洋陶磁器とともに後期バロックの中心的役割をになった。18世紀中期にパリで活躍したマルタン一家による〈ベルニ・マルタンVernis Martin〉は,日本漆芸に近い優秀品といわれたが,その確実な遺品から考えると蒔絵の模倣よりもロココ風デザインと色彩をもって装飾したものが多く,しだいに技法だけが応用されてロココ様式の中に吸収されていく過程がみてとれる。

 ヨーロッパでのほんとうの漆を用いた工芸品の製作は20世紀に入ってからといえる。これもフランスを中心に行われたが,背景にはフランス領インドシナからの漆の供給があった。スイス生れのデュナンJean Dunand(1877-1942)は独自の技法を駆使して装飾パネルを多数製作した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「漆工芸」の意味・わかりやすい解説

漆工芸
うるしこうげい
lacquerwork

を用いて制作する工芸。東洋特産の漆を用いることから,中国,朝鮮,日本,タイ,ビルマ,インドなどで古くから発達した。中国では戦国時代(前403~前221)すでに漆器が盛んに制作された記録があり,当時の漆器が湖南省長沙県などから出土している。また漢代のものは朝鮮楽浪郡の古墳や中国新疆ウイグル自治区の楼蘭のほか,モンゴル,中国東北地方などでも出土している。日本でも漆工の歴史は縄文時代末期にまでさかのぼり,古墳副葬品のなかに漆器が発見されている。しかし,日本の漆工が発達したのは,仏教渡来とともに中国の漆工技術が伝えられてからのことで,法隆寺の『玉虫厨子』をはじめ正倉院宝物や法隆寺献納宝物などによって,当時の優れた漆工技術を知ることができる。以後,各種の技法が発達し,伝統工芸として今日にいたる。ヨーロッパに漆工が伝えられたのは 16世紀以後で,ポルトガル人やオランダ人,イエズス会の宣教師たちによって紹介され,それをもとにしてベネチアで初めて模作された。以後シノアズリー(中国趣味)の流行もあって 17~18世紀に隆盛をきわめたが,シェラック,カシューなど漆以外の塗料を用いたものが多く,また熟達した技術をもつ職人がいなかったこともあって,粗悪な品質のものが多かった。しかし,パリのマルタン一家,イギリスのトマス・チッペンデールのような優れた作家も出て,18世紀ヨーロッパの王宮建築のほとんどに漆の部屋がつくられるほどであった。ベネチア,ローマ,パリ,ロンドン,アムステルダムなどがその中心地であったが,なかでもパリは最高の技術を誇っていた。現在でもフランス,ベルギー,イタリアでは漆工が行なわれている。

漆工芸
しつこうげい

漆工芸」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の漆工芸の言及

【沖縄[県]】より

…漆芸の技法はおもに日本から学び,ろくろの技術も1629年(寛永6)に日本の漆工が沖縄に漂着し,那覇の若狭町で塗物と一緒に伝えたという。その後王府は漆工芸に最も力を注ぎ,中国の技法も取り入れて,沖縄の夜光貝を使用して作った螺鈿(らでん)(青貝摺)や中国の堆朱(ついしゆ)の技法を応用した琉球漆器独特の堆錦(ついきん)が生み出された。また明治以降は木地に特産のデイゴが用いられ,木肌の粗いデイゴへの下地塗りにキリ油や泥岩に豚血(とんけつ)を混ぜる豚血下地が行われ,廉価で堅牢なため今日も伝承されている。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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