滝村(読み)たきむら

日本歴史地名大系 「滝村」の解説

滝村
たきむら

[現在地名]長沼町滝、岩瀬村滝

長沼村の北、奥羽山脈の額取ひたいどり(九四一メートル)の南東麓の川となめ川の谷口扇状地の扇頂に立地。近世は本村(滝本郷とも)新田しんでん(滝原とも)の二集落からなる。村名は額取山麓の不動ふどう滝に由来するとの説がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高二一八石余、蒲生郷貞知行地。以後の領主の変遷は長沼村と同じ。宝暦一四年(一七六四)頃成立と推定される長沼藩領変遷留書(福島県史)によれば、会津藩領時代新田の地に足軽一〇〇人が配置され、「百軒」と称していたが、寛永一六年(一六三九)に端村として新田が成立したという。ただし白河古領村郷高帳では新田はみえず、滝村として高二一八石余。元禄七年(一六九四)の滝村同新田指出帳(福島県史)によれば高六〇四石余、うち本村分三五〇石余・新田分二五三石余、反別五六町六反余、家数七三(本百姓五八・水呑百姓一五)、人数三四三(男一七八・女一六五)、馬八七、郷蔵一、百姓林二(本村一・新田一)、堰二・溜井二、成田なりた(現岩瀬村)の田畑を質として得ており、同村に出作、助郷は長沼・勢至堂せいしどう両宿へ出役。

滝村
たきむら

[現在地名]甲賀町滝

そま川左岸、市場いちば村の南に位置。南は上馬杉かみますぎ村・下馬杉村(現甲南町)、西は野川のがわ村・上池田かみいけだ(現同上)。大半は丘陵で、集落は杣川沿いに発達し、青木あおき中出なかで片山かたやま・下出などの垣内からなる。多喜とも記された。寛正三年(一四六二)六月二四日の福田庵田地売券(小川文書)に「甲賀郡上野多喜保之内字寺迫」とある。文正元年(一四六六)六月一日の檜尾ひのお神社(現甲南町)石段に「願主多喜土佐沙弥源珎」とみえる。もとは多喜氏領で、同氏の一族から織豊期中村一氏や山岡道阿弥らが出た。その城跡は字梅垣めいがきにあり、山林内には土塁などが残る。

寛永石高帳に多喜村とみえ高一千八〇五石余とあるが、一千八五石余の誤記か。

滝村
たきむら

[現在地名]岡崎市滝町・真伝しんでん

青木あおき川の中流域山間部の村で、本村と新田村とからなる。東に米河内よなごうち村、西に東阿知和ひがしあちわ村、南に箱柳はこやなぎ村・稲熊いなぐま村、北に真福寺しんぷくじ村・恵田えた村が接する。山間の川に面した狭小の地である。

保安年中(一一二〇―二四)山僧仏泉永救による滝山たきさん寺創建までは大部分が未墾地であったとみられる。役行者開創の伝承もあって、仏泉以前に滝は山林修行僧の行場であったと思われる。滝山寺創建の頃、滝は郡司層とみられる物部氏の私領であった可能性が強い。保安三年に建立された本堂の棟木銘に「檀那物部朝臣伴氏女」(滝山寺縁起)とあり、おそらく寺地はその支配地内に定められたのであろう。この物部氏は真福寺開創という物部真福につらなる人物とみられる。

滝村
たきむら

[現在地名]大内町滝

いも川の上流、滝川の沿岸一帯の山村で、芋野いもの沢・ノ沢・小倉野おぐらの沢の三つの谷からなり、芋野沢・下村したむら・湯ノ沢・小倉野沢・井戸いどだいたてした雪谷又ゆきやまたの小集落が散在する。北は鹿爪かのづめ村、南は桜長根さくらながねを隔てて矢島領法内ほうない(現東由利町)と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)新沢あらさわ郷の一村として記される。寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写には村高二〇〇石二斗六升三合、納米八〇石一斗五合、免四ツとあるが、同四年の油利新沢ノ内川池八ケ所打直免定之覚には「一新高三拾六石三斗三升壱合 此納米拾六石三斗四升九合 但四ツ五分成」とあり、打直しの結果村高が大幅に減じた。

滝村
たきむら

[現在地名]藤原町滝

鬼怒川右岸の段丘上にあり、北は鬼怒川と男鹿おじか川の合流点、南は古釜ふかま沢に至る南北に細長い村。鬼怒川対岸は藤原村。同川上流西岸に石渡戸いしわたど汲戸くみとノ沢が同川へ落ちる地点に上滝かみたきまる山の東麓に中心集落下滝がある。上滝・下滝とも独立して一村扱いされることもあった。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、畑高一三五石余。大桑おおくわ郷八ヵ村の一。享保八年(一七二三)の五十里洪水では耕地浸水面積二町三反余、流失家屋一六軒という被害があった(「社家御番所日記」八月一三日条)

延宝四年(一六七六)には鬼怒川のはね網をめぐって藤原村と相論となり、五十里いかり村などの仲裁で先例どおり網は当村で張り、毎年ます一丁を藤原村へ渡すことが決められた(「はね網出入につき手形」星常夫文書)

滝村
たきむら

[現在地名]京北町大字細野ほその 滝之町たきのまち

細川ほそかわ七ヵ村の一。大堰おおい川の支流余野よの川の下流で、かさ峠越の道(現周山街道)に沿って開けた山間集落。上流は余野村、下流は細川のかみ村、東は小野おの(現京都市北区)。村名の由来は、村内に滝又たきまたの滝という名所があることによるといい、伝説によると織田信長の伯父十界因果居士が来村し、この滝に打たれ修行したという。古代は「和名抄」に記す池辺いけのべ郷に属し、のち細川庄に含まれる。

慶長七年(一六〇二)幕府領となる。寛文四年(一六六四)当村の大部分は丹波篠山藩領となり、残りはその後(元禄元年以前と推定)二条家領となって、二分されたまま明治維新を迎えた。

滝村
たきむら

[現在地名]羽咋市滝町

一宮いちのみや村の北西、日本海に面した海岸段丘に立地。外浦街道が抜ける。もと一宮の内であったが、中世末期までに海辺部がたけあるいは竹津たけつと称し分立。大永六年(一五二六)一〇月写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)に「竹」「竹上野」「竹津」がみえ、作職人には彦左衛門・あらむまがいた。享禄四年(一五三一)七月の一宮惣分目帳案(気多大宮司家文書)には竹津の衛門次郎がみえる。天正二年(一五七四)三月一三日の一宮大弼基恵放状案(同文書)に「竹津村」の商人九郎二郎がみえる。当村は漁村として同五年一一月二四日に船上分料を気多社に納入している(「桜井基盛知行目録」同文書)。天正頃に一時、鳥倉権丞に押領される事件が起きている(年未詳三月一六日「三宅長盛書状」同文書)

滝村
たきむら

[現在地名]金津町滝

加越山地の谷間にある。「越前国名蹟考」は枝村として平谷ひらたに村・清水谷しみずだに村を記すが、現在は大滝おおたき平滝ひらたき清水滝しみずだきの三垣内からなり、平谷村は平滝、清水谷村は清水滝であろう。

中世には奈良興福寺領河口かわぐち庄に含まれ、「経覚私要鈔」寛正五年(一四六四)五月二二日条に「今度長慶寺沙汰号、細呂宜郷内滝村放火事、仰所存之間、過料銭五百疋出之」とえる。室町時代中期以前のものと思われる河口庄御検注郷々仏神田注文(神宮寺文書)に記される細呂宜ほそろぎ郷内の田地に「鳴滝二反 一反観音堂田 一反小白山田」があり、また「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条の「河口庄郷々内村名」に、細呂宜郷内の村として「滝羊谷村 神宮寺」が記されるが、「羊谷」は平谷の誤記か。

滝村
たきむら

[現在地名]高岡市滝

庄川下流右岸で芹谷野せりだにの段丘の西麓に広がる。北は常国つねくに村、西は中田なかだ町、南は今泉いまいずみ村。段丘崖に鳥羽とばの滝とよばれる滝があり、村名はこれに由来する(中田町誌)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、戸出又右衛門組に属して役家数二。同八年の針山用水庄川口夫丸未進書上覚(金子文書)では未進一一人。正保郷帳では高二九三石余、田方一八町四反余・畑方一町一反余。改作法が施行されたのは今泉村、東保ひがしぼ(現砺波市)と同じく承応元年(一六五二)(富山県史)、寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二七九石・免五ツ五歩、小物成は野役一七匁(三箇国高物成帳)

滝村
たきむら

[現在地名]本埜村滝

竜腹寺りゆうふくじ村の北西方に位置し、天台宗竜水りゆうすい寺薬師堂の門前に湧き出る泉に由来する地名という。薬師堂境内の梵鐘に建武五年(一三三八)八月八日の紀年銘が刻まれ、北朝方の勢力下にあったことが知られる。慶長一六年(一六一一)「下総滝村」が旗本内藤領になったと伝える(「諸家系譜」内閣文庫)。寛永一〇年(一六三三)八月の物木村・小林村入会裁許絵図(篠原家蔵)に村名がみえ、幕府領であるが、同年九月村内の久兵衛が旗本相馬氏家臣の谷上氏から肝煎代官に任命されており(「任命状」房総叢書)、この前後より同氏領であったのであろう。

滝村
たきむら

[現在地名]いわき市遠野町とおのまちたき

さめ川中流にあり、村域内に狭隘部があり、曲流して早瀬をなす。北は上遠野町かとおのまち村・根岸ねぎし村、西は黒田くろだ村、南は山田やまだ村。嘉吉二年(一四四二)一二月七日の岩城清隆知行宛行判物(上遠野家古文書)に「あうしうきくたのしやう、たきの郷」とみえ、上遠野式部大輔に宛行われている。応永八年(一四〇一)九月二四日の斯波満持書状写(同書)によれば、滝近江入道の所領が安堵されている。

滝村
たきむら

[現在地名]山中町滝町

動橋いぶりはし川の上流左岸に位置し、集落は川沿いの小平地に形成され、北西の中津原なかつはら村の集落と接続する。南は国境の山地に連なる標高約二〇〇メートルの丘陵地。弘治元年(一五五五)一向一揆の有力部将藤丸新介(新左衛門とも)が越前の朝倉教景に攻撃され、作見さくみ(現加賀市)千足せんぞく城を捨てて当地に逃れ赤岩あかいわ(赤尾城とも)に拠ったが、再度攻略されて敗走したという(三州志)。赤岩城については荒谷あらたに村にあるとする説もあるが(江沼志稿)、「江沼郡誌」によると当村の南にあって礎石も散在するという。正保郷帳によると高三二一石余、田方一六町五反余・畑方三町三反余、物成高一三九石余。

滝村
たきむら

[現在地名]高山市滝町

塩屋しおや村から東方に向かう大八賀だいはちが川の上流、滝川と生井なまい川とに沿った山間の村。傾斜地が多く畑地が圧倒的。滝川沿いが本村で、生井川沿いの集落は枝村の生井。本村から小八賀こはちが山口やまぐち村へ約半里の山道はあるが、高山から大八賀川沿いに続く道は当地で行止り。川沿いに縄文時代を中心とする遺跡が多数ある。

慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では大八賀郷に村名がみえる。

滝村
たきむら

[現在地名]三春町滝

大滝根おおたきね川を挟んで柴原しばはら村の南東対岸にある。大畑おおはたに文保二年(一三一八)六月日の紀年銘のある供養石塔がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の中津間なかつまの高二千一二八石余に含まれ、中津間八郷の一つであった(三春町史)。加藤明利入封の寛永四年(一六二七)の田村郡高目録之写(船引町史)に初めて滝村とみえるが、高の書分けはない。秋田氏入封の正保二年(一六四五)の在々屋敷数家数并人数(三春町史)から独立し、屋敷数一〇・家数二九、人数五六(男三二・女二四)。万治二年(一六五九)の村高覚(福島県史)の本田高一八五石余。

滝村
たきむら

[現在地名]八王子市高月町たかつきまち

高月村の東部にあたる。高月村の枝郷で、下高月ともいう。古くは中丹木なかたんぎ滝山たきやまの二村および高月村の一部を合せて滝村と称し、慶長年間(一五九六―一六一五)本丹木村・中丹木村・滝村の三ヵ村となったという(加住誌稿)。「風土記稿」では幕府領で、民家三〇、小名は仁沢にんさわ山王沢さんのうさわ不動沢ふどうさわ柿沢かきざわなど。駒形こまがた明神社(現駒形神社)は奥州駒形神社(現岩手県水沢市)の分霊を勧請したという。天正一九年(一五九一)朱印一〇石の地を与えられた。

滝村
たきむら

[現在地名]君津市吉野よしの

堰場せきば村の北、御腹おはら川の中流右岸に位置する。東は丘陵を越え市原郡万田野まんだの(現市原市)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八二石。元禄郷帳では高七二石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高八七石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数一八。明治一〇年(一八七七)堰場村など二村と合併し吉野村となる。

滝村
たきむら

[現在地名]かつらぎ町滝

広口ひろくち村の東にある。中世には高野山領四郷しごうのうちであったと考えられる。慶長検地高目録によると村高は一八九石余、小物成一・二五八石。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると当時の村高は一九二石余、家数六八、人数三七三、池二。寛文二年(一六六二)当村と北隣の東谷ひがしたに村との間で山論があり、東谷村は証拠文書として至徳元年(一三八四)一二月一〇日付の四郷内東郷四至方至定書(北辰妙見神社蔵)を提出している。しかし裁定人平原彦六の記した同文書裏書によると、滝村に有利な裁定が下ったようである。

滝村
たきむら

[現在地名]烏山町滝

神長かなが村の南、川下流域に位置し、集落は同川両岸の段丘上にある。南東は野上のがみ村、西は森田もりた(現南那須町)。村の中央部を北から南東へと蛇行しながら流れる江川には竜門りゆうもん滝がかかる。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)に村名がみえ、高二三〇石余、烏山藩領。天和元年(一六八一)以降、一時下総関宿藩領となるが、のち烏山藩領に復し幕末に至る。慶安郷帳では田高一二九石余・畑高一〇〇石余。享保一一年(一七二六)の諸色差出帳(益子時男文書)によれば家数三〇(高持二〇・水呑一〇)、人数一四八(うち出家三・道心三)、馬二〇・犬三・猫三、農外渡世の者として酒造家・商人・畳差・桶屋各一がいた。

滝村
たきむら

[現在地名]青森市西滝にしたき千刈せんかり二丁目・久須志くすし四丁目・千富せんとみ町二丁目の各一部

東は沖舘おきだて村、南は浪館なみだて村、西は三内さんない村と石神いしかみ村、北は石神村支村の相野あいのに接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高二九三・九九五石、うち田方二七五・〇四一石、畑方一八・九五四石とある。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)

滝村
たきむら

[現在地名]椎葉村不土野ふどの

尾前おまえ村の東に位置し、東流する耳川右岸に不土野川が合流する地点の左岸山腹に立地する。不土野掛一一ヵ村の一つで、向山組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として滝とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑一反余(高一斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の向山村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)によれば、「丸畑山」に焼畑三〇枚・一町余があり、その年貢米二斗余・代銀一四匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高一石二斗余。

滝村
たきむら

[現在地名]西吉野村大字滝

丹生にう川流域に立地し、北は五條市に接する。弘治四年(一五五八)三月の滝村水田売券に「タキノ与三郎」とみえる。当村を流れる丹生川は通称ジョウオトシと称し、渓谷中の景勝地の一、江戸期には筏流しの難所となっていた。

加名生あのう郷のうち。慶長郷帳では村高一一〇・〇七石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地で村高は一四五・八二五石となった。宗門改帳によると明和元年(一七六四)の戸数三五、人口一五〇、天保一五年(一八四四)の戸数二六、人口一五一、明治元年(一八六八)には戸数三〇、人口一六一とみえる。

滝村
たきむら

[現在地名]青山町滝

伊賀郡の東北端にあり、北は山田やまだ坂下さかげ(現阿山郡大山田村)に接する。大部分は山地で、坂下村に源を発する上津こうづ(木津川)は当村やや西部を西南流し、西流する矢城やしろ川を合する。本高二六三・一八九石、平高三七七・五二石。寛文二年(一六六二)坂下村との間に山論があった(阿山郡大山田村の→坂下村

滝村
たきむら

[現在地名]南部川村滝

南部川とその支流高野たかの川が合流する辺りに広がる。南は東本庄ひがしほんじよう村、西は西又にしまた峠を越えて熊瀬川くませがわ村。慶長検地高目録には記載なく、当時は南部川村の一部であった。宝暦一〇年(一七六〇)の南部組大指出帳(「日高近世史料」所収)に村名がみえ、村高二〇四石余で、このなかには茶一一八斤余分の高七石一斗二升二合、紙木二三二束半分の高四石六斗五升、桑二四束余分の高二斗四升一合が含まれる。田畑三三町六反余、家数三四で内訳は庄屋・肝煎各一、御役家一五、無役家一七、人数一八七(男九六・女九一)、牛一五、池三、井堰七。

滝村
たきむら

[現在地名]東金市滝

丹尾たんのう村の北に位置し、東金御成とうがねおなり街道が通る。貞治四年(一三六五)二月八日の上総守護上杉朝房遵行状(保阪潤治氏所蔵文書)には、湯井ゆい郷内滝若一たきにやくいち王子神領田畠屋敷等が兵部房道精に押領されているとして、下地を鎌倉浄光明じようこうみよう寺雑掌に沙汰付するように命じているが、これは当地のことと思われる。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道作帳に「たき村」とみえ、勤高一二九石で三町を負担している。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では油井組に属し、旗本黒川領一二〇石。

滝村
たきむら

[現在地名]高崎市上滝町かみたきまち

東、南、西の三方は下滝村、北方は上滝村で、群馬郡中最小の村であった。滝川たきがわ用水は当村榎町えのきまち堰で天狗岩てんぐいわ用水から分れる。太田道灌状(島原市教育委員会蔵)によると、文明九年(一四七七)一二月二三日古河公方足利成氏が滝に布陣している。慶長一五年(一六一〇)二月の江原源左衛門に対する給所宛行状(江原文書)で「たき村」の三町三反が与えられている。源左衛門は武田氏の家臣と伝える人物で、天狗岩用水の余水を利用した代官だいかん(のちの滝川用水)の開発に尽力した(元禄一五年「江原家先祖書上」同文書)

滝村
たきむら

[現在地名]平内町東滝ひがしたき

東は陸奥湾、南は浅所あさどころ村、西は山で福館ふくだて村、北は白砂しらすな村に接する。正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図に「滝ノ尻狄村」と記される。享保六年(一七二一)頃に存在した村といわれる。当村の生産力は貧弱で、明治初年の「新撰陸奥国誌」に「家数六軒。西北に小阜あり。東南は海なり。田畑共に少く且土地下之下」とあり、南に続く支村の間木まぎ村は家数六。

寛政七年(一七九五)の「津軽の奥」に「間木の浜とて、やのはつかばかりあるにけぶり立は、帆立貝、あかざら貝などをやいてしら灰となし、しほがま、ねり作る料とてわざにせり。

滝村
たきむら

[現在地名]豊岡市滝

森津もりづ村の西に位置し、大浜おおはま川が流れる。同村境近くにある小沼こぬまの滝は古くから日蓮宗信者の修行の場ともなり、地名を生んだとみられる。江戸時代の領主の変遷は栃江とちえ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一八八石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。天明八年(一七八八)の巡見帳(三宅家文書)では家数一六・人数八六、鎮守は滝大明神(現滝神社)

滝村
たきむら

[現在地名]玉野市滝・永井ながい

広岡ひろおか村の南に位置し、枝村に長井ながいがある。元和三年(一六一七)の児島郡物成帳では田畠高八四石余、長井は「滝村之内」として高二三石余とある。寛永備前国絵図では高五三五石余、文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高五三五石余、直高六三〇石余で池田和泉の給地、田二一町余・畠八町九反余、池九・樋一九・井戸九、家数八〇・人数三六五、牛五二、猟師鉄砲三、紺屋一軒、木挽三、家大工二、桶屋・鍛冶各一、御留山が滝に三三町七反余、長井に一三町七反余ある。

滝村
たきむら

[現在地名]加悦町字滝

与謝よざ村の北に位置し、加悦街道沿いおよび滝川沿いの狭長な谷間に集落が点在する。滝峠越で但馬(現兵庫県)と結ばれている。

慶長検地郷村帳に高六七二・三四石「滝村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で一千六二石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領。幕末期の戸口は一六八軒、七〇六人(与謝郡誌)

滝村
たきむら

[現在地名]東吉野村大字滝野たきの

高見たかみ川の支流平野ひらの川の上流域にある。小川おがわ郷のうち。慶長郷帳では村高九・八七石、幕府領(代官辻子和泉)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、延宝七年(一六七九)再び幕府領となる。

滝村
たきむら

[現在地名]一宮市萩原はぎわらたき

多喜・多木とも記す。東は高木たかぎ村、南は高松たかまつ村に接する。応永九年(一四〇二)一二月の妙興寺末寺蔵田寺領坪付注文(妙興寺文書)に「一所壱町捌段 東多木」とある。年未詳の織田信雄判物(酒井文書)にも「たき」とみえ、織田信雄分限帳にも「千百貫 中嶋・滝・櫛作 杉浦五左衛門」とある。「寛文覚書」の概高は二八五石余、家数一八・人数八六。

滝村
たきむら

[現在地名]新発田市滝

ふもと村の東北、南流する坂井さかい川の右岸にあり、背後に櫛形くしがた山脈の山並を負う。正保国絵図に村名がみえ、二四〇石余で村上藩領。延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)によると蔵光組に属し、高九四石七斗余、免四ツ五分、田畑九町七反余、家数八、人数一〇五。のち幕府領を経て享保九年(一七二四)黒川藩領となる。

滝村
たきむら

[現在地名]大原町滝

川上かわかみ村の南西に位置し、南東は桂坪かつらつぼ村。正保郷帳に村名がみえ、田一七七石余・畑八六石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高五七石余・開高七石余、村位は下。

滝村
たきむら

[現在地名]有田市宮原みやはら町滝

どう村の西方、山麓の扇状地上に発達した集落で、「続風土記」に「村の北の山に滝あり」とある。慶長検地高目録によれば村高一二一石余。家数五一、人数一九一(続風土記)

滝村
たきむら

[現在地名]泉南市鳴滝なるたき

樽井たるい村の東にあり、北は岡田おかだ村。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳に村名がみえ、高六二石余。

滝村
たきむら

[現在地名]五條市滝町

吉野川東・南岸の村落。慶長郷帳にはみえず、元和郷帳に「たき村」とあり村高三〇九・四二石、旗本船越景直領。寛永郷帳には「滝村」で、村高三〇九・四二二石。旗本船越三郎四郎領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android