溝口秀勝(読み)みぞぐちひでかつ

改訂新版 世界大百科事典 「溝口秀勝」の意味・わかりやすい解説

溝口秀勝 (みぞぐちひでかつ)
生没年:1548-1610(天文17-慶長15)

織豊期の武将尾張溝口の生れ。幼年より丹羽長秀に仕えたが,1581年(天正9)織田信長よりじきじきに5000石を与えられ,若狭高浜城主となった。83年羽柴秀吉柴田勝家攻め北陸を平定するにあたっての功により,4万4000石をあてがわれて加賀大聖寺の城に移った。98年(慶長3)越後新発田に城替えとなり,蒲原(かんばら)郡で6万石を領した。関ヶ原の戦の際には越後国一揆戦い,これを征した。
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朝日日本歴史人物事典 「溝口秀勝」の解説

溝口秀勝

没年:慶長15.9.28(1610.11.13)
生年天文17(1548)
越後国(新潟県)新発田藩初代藩主。勝政の長男。幼名竹丸。金右衛門尉定勝。尾張国中島郡溝口村(愛知県稲沢市)に生まれる。丹羽長秀に仕え,天正9(1581)年4月,織田信長より若狭国高浜城5000石を与えられる。同14年長秀の死後,羽柴(豊臣)秀吉の命で堀秀政与力となる。翌年11月従五位下,伯耆守に任ぜられ,秀勝と改名。その後,秀吉のもとで歴戦に参加。慶長3(1598)年4月,秀政の子秀治の越後移封に伴い新発田城6万石を与えられる。同5年の関ケ原の戦では徳川方に属して,所領を安堵されている。墓所は新発田城下の大麟寺。<参考文献>『新発田市史』上

(長谷川弘道)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「溝口秀勝」の解説

溝口秀勝 みぞぐち-ひでかつ

1548-1610 織豊-江戸時代前期の大名。
天文(てんぶん)17年生まれ。丹羽(にわ)長秀の臣で加賀(石川県)大聖寺(だいしょうじ)城主。のち豊臣秀吉につかえ,慶長3年(1598)越後(えちご)(新潟県)新発田(しばた)6万石をあたえられた。関ケ原の戦いでは東軍に属し,上杉遺民一揆(いっき)を鎮定。所領を安堵(あんど)され,新発田藩主溝口家初代となった。慶長15年9月28日死去。63歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は金右衛門。

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世界大百科事典(旧版)内の溝口秀勝の言及

【刀狩】より

…中世以来の海賊衆は諸大名の被官となって水軍に組織されていったが,その配下で直接の労働に従事していた漁師たちは,武装解除のうえ百姓身分として確定され,小規模漁業を営む専業者となっていく。 刀狩令の実施は,秀吉から新たに知行をあてがわれ,それぞれの地域で領主権の確立につとめていた大名にとって好都合であり,たとえば加賀の溝口秀勝の領国では,わずか1ヵ月のうちに刀・脇差など4000点近くの武具が集められた。奥州のような征服地では,検地の施行とならんで武具改めが実施されている。…

【新発田[市]】より

…市域の東部は飯豊(いいで)山系,西部は加治川などのつくる扇状地,およびその前面に広がる沖積低地からなる。中心市街地は近世初頭,溝口秀勝が入封し,新発田藩の城下町として発達した。当時,付近には低湿地が多かったため,歴代の藩主は治水,干拓,新田開発に努め,その後穀倉地帯が形成された。…

【新発田藩】より

…越後国(新潟県)蒲原郡新発田に居城した外様の中藩。1598年(慶長3)溝口秀勝が加賀国大聖寺城から移され,蒲原郡において6万石を与えられて成立した。以来12代,274年間,大名の交代なく維新を迎えた。…

※「溝口秀勝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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