源隆国(読み)ミナモトノタカクニ

デジタル大辞泉 「源隆国」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐たかくに【源隆国】

[1004~1077]平安中期の公卿・文学者高明の孫。通称、宇治大納言。皇后宮大夫・権大納言となり、後一条天皇から白河天皇まで5代に仕えた。説話集宇治大納言物語」を編著したという。

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精選版 日本国語大辞典 「源隆国」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐たかくに【源隆国】

平安後期の歌人、文学者。俊賢の子。正二位権大納言に至り、宇治大納言と呼ばれた。のち病を得て出家。「後拾遺集以下勅撰集に六首ほど入集。学才にすぐれ、仏教に通じ、散逸した「宇治大納言物語」の撰者ともいわれる。寛弘元~承保四年(一〇〇四‐七七

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百科事典マイペディア 「源隆国」の意味・わかりやすい解説

源隆国【みなもとのたかくに】

平安後期の公卿。正二位,権大納言。源俊賢(としかた)の次男。編書として宇治平等院の南泉房で《往生要集》にならい浄土教要文を抄出した《安養集》10巻があり,《宇治拾遺物語》序文によれば,同所で往来の人々に〈昔物語〉をさせて《宇治大納言物語》を著したという。そのことから《今昔物語集》作者に想定されたこともあるが現在では否定的である。《後拾遺和歌集》以下の勅撰集に5首入集。
→関連項目宇治大納言物語

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朝日日本歴史人物事典 「源隆国」の解説

源隆国

没年:承暦1.7.9(1077.7.31)
生年:寛弘1(1004)
平安中期の公卿。宇治大納言と称す。元服当初は宗国を名乗った。権大納言俊賢と右兵衛督藤原忠尹の娘の子。18歳のとき後一条天皇の蔵人を務め8年後に蔵人頭となり,長元7(1034)年参議に任じられた。治暦3(1067)年権大納言。兄の顕基が関白藤原頼通の養子であった関係から重用され,頼通の娘寛子の立后に際し皇后宮大夫に任じられた。晩年は宇治平等院の一郭の南泉坊で避暑するのを常とし,ここで,かつての慶滋保胤勧学会と同様,道俗の者だけで仏典研究の会を持ち,『安養集』を編んでいる。この書は中国にも伝えられ評判となった。また道ゆく人を呼びとめては大きな団扇であおがせながら珍しい話を聞いたといい,これを編集した隆国の説話集が『宇治大納言物語』(現存しない)で,これをもとに作られたものが『宇治拾遺物語』といわれ,『今昔物語集』や『古今著聞集』など後続の説話に影響を与えた。豊富な逸話の持ち主で奇行,暴露癖があったことが知られる。20首余が勅撰集にとられるなど和歌をよくした。姉妹に『成尋阿闍梨母集』の作者がいる。

(朧谷寿)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源隆国」の意味・わかりやすい解説

源隆国
みなもとのたかくに
(1004―1077)

平安中期の公卿(くぎょう)。高明(たかあきら)の孫。俊賢(としかた)の二男。蔵人頭(くろうどのとう)、皇后宮大夫(だいぶ)などを歴任して権大納言(ごんだいなごん)となる。宇治(うじ)の南泉坊に住んでいたことがあって、宇治大納言とよばれる。南泉坊で僧俗の中心となり、浄土教の論書『安養集』を編んだ。『往生要集』を継ぎ、経典などの要文を抄出したもので、1067年(治暦3)までには成るか。また、『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』の序文によれば、南泉坊で往来の人々に物語を語らせ、これを書き留めて説話集をつくったという。この作品は伝存しないが、『宇治大納言物語』として諸書に逸文がみえる。『今昔(こんじゃく)物語集』『梅沢本古本説話集』『宇治拾遺物語』などの資料ともなったと考えられ、院政期、鎌倉期の説話集の源流の一つである。

[森 正人]

『『日本文学研究資料叢書 今昔物語集』(1970・有精堂出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「源隆国」の意味・わかりやすい解説

源隆国 (みなもとのたかくに)
生没年:1004-77(寛弘1-承暦1)

平安後期の公卿。源俊賢の次男。1018年(寛仁2)宗国を改名。摂関家の姻戚として順調に昇進,34年(長元7)参議。61年(康平4)権中納言を辞したが67年(治暦3)権大納言となる。74年(承保1)納言辞任,77年病により出家し没す。隆俊ら諸子も立身したが,鳥羽僧正覚猷(かくゆう)は特に有名。《宇治拾遺物語》序に《宇治大納言物語》(原本不詳)の作者と伝える。《今昔物語集》の撰者ともいわれるが不明。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源隆国」の意味・わかりやすい解説

源隆国
みなもとのたかくに

[生]寛弘1(1004)
[没]承保4(1077).7.9.
平安時代中期の文学者。俊賢の子で,高明の孫。藤原頼通の知遇を得た。治暦3 (1067) 年権大納言。宇治に別荘を営み宇治大納言と呼ばれた。宇治で行人から聞いた説話を集めて『宇治大納言物語』 (散逸) を著わしたと伝えられ,『今昔物語集』『打聞集』『古本説話集』『世継物語』『宇治拾遺物語』などの説話文学に多大の影響を与えた。浄土教に深い関心を示し,経文を集めた『安養集』 (10巻) がある。また和歌をよくし,『後拾遺和歌集』に6首入集するほか,種々の歌合に出席している。逸話に富み,磊落な人柄だったようである。子に故実に明るい大納言俊明や「鳥羽絵」の創始者とされる鳥羽僧正覚猷 (かくゆう) がいる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源隆国」の解説

源隆国
みなもとのたかくに

1004~77.7.9

宇治大納言とも。平安後期の公卿。幼名宗国。大納言俊賢(としかた)の次男。母は藤原忠尹の女。1014年(長和3)従五位下。侍従・伊予介・右近衛権中将・蔵人頭などを歴任し,34年(長元7)従三位・参議。43年(長久4)権中納言。61年(康平4)権中納言を辞し,子の俊明を加賀守に申任。67年(治暦3)権大納言。時に正二位。74年(承保元)権大納言を辞し,外孫藤原師兼を申任。「宇治大納言物語」(散逸)の作者とされる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源隆国」の解説

源隆国 みなもとの-たかくに

1004-1077 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
寛弘(かんこう)元年生まれ。源俊賢(としかた)の次男。母は藤原忠尹の娘。長元7年(1034)参議。正二位にすすみ,治暦3年(1067)権(ごんの)大納言。晩年に宇治の別荘にすみ,往来の人から諸国の奇談をきいて「宇治大納言物語」をあらわしたという。この書はのちの説話集の母体となった。承保(じょうほう)4年7月9日死去。74歳。

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世界大百科事典(旧版)内の源隆国の言及

【今昔物語集】より

…標題のみを残す19話,標題と本文の一部を残す説話を含めて,1059話を収録。
[編者と成立]
 《宇治拾遺物語》の序に,宇治大納言源隆国(みなもとのたかくに)が納涼のために宇治平等院の南泉房(なんせんぼう)に籠り,往来の諸人の昔物語を記録したものが《宇治大納言物語》であり,増補されて世に行われている,とある。従来は,この《宇治大納言物語》が本書と同一視され,本書は隆国の編とされていたが,収録説話に隆国没後の記事を含むこと,隆国の編としては説明の困難な誤りを含むことなどが指摘され,隆国編纂説はそのままでは受け入れられなくなった。…

※「源隆国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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