源満仲(読み)みなもとのみつなか

精選版 日本国語大辞典 「源満仲」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐みつなか【源満仲】

平安中期の武将。経基の長男。村上冷泉円融・花山四朝に仕え、諸国の守を歴任。安和の変によって藤原氏信任を得て源氏発展の礎をつくる。摂津の多田に住したので多田満仲ともいわれる。延喜一二~長徳三年(九一二‐九九七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「源満仲」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐みつなか【源満仲】

[913~997]平安中期の武将。経基の長男。鎮守府将軍安和あんなの変源高明を失脚させ、藤原氏に協力して地位を確立。摂津国多田に住んで、多田源氏を称した。多田満仲。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「源満仲」の意味・わかりやすい解説

源満仲 (みなもとのみつなか)
生没年:?-997(長徳3)

平安中期の武将。源経基の長子。摂津源氏の祖。藤原摂関家に接近し,摂関政治確立の端緒となった969年(安和2)の安和(あんな)の変をしくんだといわれる。この変で平将門追討に功のあった藤原秀郷(ひでさと)の子千晴が連座し,摂関家と結んだ満仲は武人としての地位を確立するに至った。986年(寛和2)の花山天皇出家事件では満仲が警固に当たったといわれ,994年(正暦5)の大規模な盗賊追捕(ついぶ)でも満仲とその一族が中心になっていた。摂津守となって摂津多田を本拠とし,ここに多田院を創立したことから多田満仲(ただのまんぢゆ)と呼ばれた。この本拠地に多くの郎等を養っていた様子が《今昔物語集》に記されているが,これは物語が成立した12世紀ごろの武士団の投影と思われる。しかし満仲の代に武人としての基礎が確立したことは確実である。なお生年について《尊卑分脈》は912年(延喜12)あるいは913年と伝えるが,満仲の父経基の生年を917年としている点で問題が残る。
執筆者:

《今昔物語集》巻十九に,満仲の子僧源賢が父の殺生無慚を憂え,恵心僧都源信とはかって,多田の父邸に赴き,能説の誉れの高い院源に説経を講じさせる。感激した満仲は翌日ただちに出家する話が見える。これには,出家前夜従者400~500人がその館を幾重にも取りまいて最後の警護をする話,出家のときにタカを放ち,網を破り,武具を焼く話,源信らが演じさせた迎講(むかえこう)に随喜した満仲が多田院の創建にとりかかる話が配されている。《宝物集》では満仲出家のことを簡略に記し,多田新発意(ただのしんぼち)と称されたとする。《古事談》には出家受戒のとき,殺生戒のところで居眠りし,のちに師の源信に,家人にあなどられるのを恐れ,そのふりをしたと謝した話が見える。これらの説話は殺生をこととする極悪の者も善心を起こして出家する例として説経唱導などの素材となって普及したものであろう。鎌倉時代の説経僧の手控えと考えられている《多田満中》(京都大学蔵)は満仲が子の美女丸を叡山に登らせるが,武芸ばかりに心がけ仏法をおろそかにするので,満仲は怒って郎等仲光に殺すように命じる。仲光は子の幸寿丸身代りに立て美女丸を助ける。美女丸は一念発起して円覚という高僧になるという話を伝える。これは,小童寺の建立や児文珠(ちごもんじゆ)の由来で結ばれており,全体として法華経礼賛を主旨としているが,幸若舞《満仲(まんぢゆう)》もこれとほぼ同じ物語で,仏教色も強く,法華念仏一体の教義を説くなど浄土僧の手を経ていることを思わせる。能の《仲光》(《満仲》とも)も同材だが簡略で,幸若舞に比べると仏教色も弱い。御伽草子系の冊子にも《多田満中》があって,これは幸寿丸の身代り譚があるが,美女丸の法名を源賢としている。摂津国川辺郡の多田荘の近辺には,多田院(法華三昧院とも。明治以後は多田神社)をはじめ,小童寺,満願寺,普明寺,武庫郡の昌林寺などに,満仲,仲光,美女丸の遺跡・伝説を伝え,《多田院由来記》にも美女丸伝説を伝える。諸国にも満仲・美女丸伝説があって,とくに越前,若狭には,福井の光照寺をはじめ,その伝説を伝える地が多く,箱根には俗に満仲の墓と伝える宝篋印塔(ほうきよういんとう)(永仁4年(1296)の銘があるので,実は満仲と無関係)がある。これらも回国の聖(ひじり)や説経の徒が伝えたものであろう。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「源満仲」の意味・わかりやすい解説

源満仲
みなもとのみつなか
(912―997)

平安中期の武将。多田(ただ)満仲と称す。経基(つねもと)の長男。武蔵(むさし)、摂津などの国守を歴任し左馬頭(さまのかみ)、鎮守府(ちんじゅふ)将軍となる。969年(安和2)に起きた安和(あんな)の変では、陰謀を右大臣の藤原師尹(もろただ)に密告して源高明(たかあきら)や藤原千晴(ちはる)らを陥れ、自らはその賞として正五位下に叙せられた。また986年(寛和2)に起きた藤原兼家(かねいえ)・道兼(みちかね)父子らによる花山(かざん)天皇出家事件では、山科(やましな)の元慶寺(がんぎょうじ)までの道々を郎等を従えて邪魔が入らぬよう警固にあたった。この一例からも知られるように満仲は摂関家と強く結び付くことで勢力を養った。一条(いちじょう)天皇時代には、武士として認められる存在であった。彼の率いる武士団については『今昔(こんじゃく)物語集』に描写されているが、そこには12世紀中ごろの武士団が投影されている。摂津守(かみ)を契機に摂津国多田(ただ)(兵庫県川西(かわにし)市)の地に居住して多田源氏を称し、多田院を創立して一族郎等を住まわせ、摂津源氏の基を築いた。出家して満慶(まんけい)と号し、多田新発意(しんぽちい)とも称した。現在の川西市にある多田神社は宗廟(そうびょう)としてあがめられている。

[朧谷 寿]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「源満仲」の解説

源満仲

没年:長徳3(997)
生年:延喜12(912)
平安中期の武将。賜姓源氏の経基の嫡男。多田源氏の祖,多田新発意と称す。法号は満慶。安和の変(969)の発端となった陰謀(源連 らが皇太子守平親王廃位を狙っているという)を密告して朝廷にその名を強く印象づけた。清和源氏が摂関家に臣従する契機はここに始まるとみてよい。越前(福井県),常陸(茨城県)などで地方官も務めたが京での生活が主である。左京一条に邸宅を構えていたが,放火によって焼亡した。また押し入った強盗を捕らえたこともある。朝廷警備も担当し,一条天皇時代(986~1011)のすぐれた武士5名のなかにその名をとどめるが,武士として顕著な働きはみられない。摂津国多田(兵庫県川西市)の地において数百人の郎等を従えて武士団を形成していたという『今昔物語集』の話は有名ではあるが,実際とは大きな隔たりがある。後世の武士団の姿の投影であろう。川西市の多田神社に祭られている。<参考文献>朧谷寿『清和源氏』

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源満仲」の意味・わかりやすい解説

源満仲
みなもとのみつなか

[生]延喜12(912)/延喜13(913)
[没]長徳3(997)
平安時代中期の武士。清和天皇の曾孫。父は経基。正四位下,鎮守府将軍。摂津国多田に住んで多田を称した。摂津,越前,武蔵,伊予,美濃,下野,陸奥などの国守を歴任した。安和2 (969) 年に為平親王擁立の陰謀を企てたと密告して源高明失脚の因をつくり,藤原氏政権の確立に奉仕し,並びなき武人との声望を得,藤原氏に随従して後代の清和源氏発展への遠因をつくった。子頼光の子孫に,のちの守護大名土岐氏があり,子頼信の子孫に,のちの将軍頼朝および新田,足利,佐竹,武田氏その他がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「源満仲」の意味・わかりやすい解説

源満仲【みなもとのみつなか】

平安中期の武将。経基(つねもと)の子。摂津(せっつ)源氏の祖。安和(あんな)の変に藤原氏と結んで勢力をのばし,清和源氏発展の基礎を固めた。摂津多田(ただ)(兵庫県川西市)に住し多田源氏と称した。
→関連項目源頼信

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「源満仲」の解説

源満仲
みなもとのみつなか

912/913?~997

平安中期の武将。経基(つねもと)の子。頼信の父。多田満仲(ただのまんじゅう)・多田新発意(しんぼち)とも称する。摂津国に創立した多田院を拠点としたことから,この流を多田源氏ともいう。伊予・武蔵など各国司や左馬権頭などを歴任。969年(安和2)藤原氏と結んで安和(あんな)の変の陰謀を密告,その功で正五位下に叙された。これにより武者として対抗していた藤原千晴の排除に成功。その後も摂関家との結びつきを強化しながら,軍事貴族としての地位を確立。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源満仲」の解説

源満仲 みなもとの-みつなか

912-997 平安時代中期の武人。
延喜(えんぎ)12年生まれ。源経基(つねもと)の長男。摂津多田荘(兵庫県)を本拠とする多田源氏の祖。安和(あんな)の変で藤原千晴(ちはる)らを密告。以後藤原摂関家とむすび,武門としての源氏の地位をきずく。越前(えちぜん),摂津などの国守,鎮守府将軍を歴任。晩年出家して多田新発意(しんぼち)とよばれた。長徳3年死去。86歳。法名は満慶。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「源満仲」の解説

源満仲
みなもとのみつなか

912〜997
平安中期の受領 (ずりよう) ・武将
経基の長男。摂関家に接近し,安和の変(969)では密告者となった。諸国の受領を歴任し,鎮守府将軍となり清和源氏発展の基礎を築いた。摂津守のとき,摂津の多田に住み,多田院を創設したので多田満仲ともいう。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の源満仲の言及

【川西[市]】より

…旧多田村は多田源氏発祥の地で,多田神社(現在の建物は江戸初期に再建)をはじめ源氏ゆかりの史跡が多い。多田銀山も源満仲が開発したと伝えられ,江戸中期まで銀,銅を産出した。住宅都市としては1910年箕面有馬電気鉄道(現,阪急宝塚線)の開通に始まり,当初は高級住宅地として発展した。…

【清和源氏】より

…こうして各地に清和源氏の一族が繁衍(はんえん)して,やがて桓武平氏とならび称される有力武家の一族となったが,後世とくに〈武人の家〉として名を成し,また初めて武家の政権を樹立するに至るのは,河内源氏の系統の一族である。なお源満仲は969年(安和2)の安和の変において藤原氏のために暗躍して左大臣源高明(たかあきら)を失脚させたことがあり,以後,頼光・頼信らも藤原摂関家に臣従してその爪牙(そうが)となり,深い結びつきを続けたことも見逃せない。 源頼信は1028年(長元1)に始まった平忠常の乱に際し,甲斐守としてその追伐を命ぜられ,ほとんど戦わずに忠常を降伏させ,一躍その武名を関東に高めた。…

【摂津源氏】より

…貞純親王流清和源氏の嫡流。《尊卑分脈》によれば,貞純親王の皇子源経基に満仲・満政ら数子があり,その満仲が摂津守となり,摂津国多田地方に本拠をおいて豪族的武士としての在地支配を開いた。満仲のあとは嫡子頼光が継承し,その子孫が摂津源氏を称するに至る。頼光は藤原摂関家とくに兼家・道長に臣従し,〈都の武者〉としてその武名を高めたが,その武的活動は都の治安維持の範囲を出ず,むしろ受領を歴任して巨富を蓄えた。頼光の子頼国・頼家は中級貴族として京都に生活し,頼国の子頼弘・頼資・頼実らも検非違使あるいは蔵人として京都で活躍した。…

【多田院】より

…現在多田神社。970年(天禄1)摂津守源満仲の創建で,その子息天台僧源賢を開山とする。本尊は丈六釈迦仏で願主は満仲,そのほか文殊(もんじゆ)菩薩は頼光,普賢(ふげん)菩薩は頼親(大和源氏の祖),四天王は頼信(河内源氏の祖)と,それぞれ満仲の子息たちが願主となっている。…

【満仲】より

…作者不明。多田満仲(源満仲(みつなか))は子の美女御前(びじよごぜん)を中山寺(摂津国川辺郡)に登らせたが,早業,相撲,力業などのまねごとをし,乱暴ばかり働いて,いっこうに経典や学問に心を向けなかった。数年たって,満仲は藤原仲光という郎等を使いに立て,美女御前を呼び下ろして経文を読ませるが少しも読めない。…

※「源満仲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android