源氏(げんじ)(読み)げんじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「源氏(げんじ)」の意味・わかりやすい解説

源氏(げんじ)
げんじ

皇族賜姓(皇族を臣籍に下すときに与える姓)の一つの源(みなもと)姓をもつ氏族。814年(弘仁5)嵯峨天皇(さがてんのう)が皇子に源姓を与えて臣籍に降下させたことに始まる。これが嵯峨源氏で、以後、淳和(じゅんな)、仁明(にんみょう)、文徳(もんとく)、清和(せいわ)、陽成(ようぜい)、宇多(うだ)、醍醐(だいご)、村上(むらかみ)、花山(かざん)などの諸源氏が生まれた。歴史上よく知られているのは清和源氏である。

安田元久

清和源氏

清和天皇の皇子のうちで貞固(さだかた)、貞元(さだもと)、貞純(さだずみ)、貞数(さだかず)、貞真(さだざね)の各親王の子孫はみな源姓を賜ったが、そのうちで貞純親王の子孫がもっとも栄えた。貞純親王の男経基(つねもと)王は承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱の鎮定に活躍、961年(応和1)に源姓を与えられた。その子満仲(みつなか)は摂津国多田(ただ)(兵庫県川西(かわにし)市)に土着して多田院を創立した。満仲の子頼光(よりみつ)の一族はこの地にあって摂津源氏あるいは多田源氏とよばれた。そのほか、大和(やまと)、河内(かわち)、美濃(みの)、尾張(おわり)、三河などの各地にこの一族は繁栄し、桓武平氏(かんむへいし)と並び称される有力武家へと発展した。これらのうち、のちに初めて武家政権を樹立したのは、河内源氏の流れをくむ一族である。満仲の子頼信(よりのぶ)は平忠常(たいらのただつね)の乱に功があり、その子頼義(よりよし)、孫義家(よしいえ)は前九年・後三年の役に活躍、これらの戦役により東国の武士と結び、関東における源氏勢力の基盤を固めた。彼らは藤原摂関家に臣従して力を伸ばし、摂関政治のもとでは有力であったが、やがて摂関家にかわって院(上皇)が政治権力を掌握すると、しだいにその勢力は抑えられ、さらに源氏一族間の内紛と相まって、京都政界における武門の棟梁(とうりょう)としての地位を平氏に譲り、1159年(平治1)の平治(へいじ)の乱に義朝(よしとも)が敗死して、平氏一門の全盛時代となる。義朝の子頼朝(よりとも)は、この乱ののち伊豆に配流されたが、やがて1180年(治承4)全国的に高まった反平氏の機運をみて、伊豆に挙兵、1185年(文治1)に平氏を滅ぼし、相模国(さがみのくに)鎌倉(神奈川県鎌倉市)に幕府を開いた。武家政権の成立である。この系統は頼朝の子実朝(さねとも)で滅亡するが、武家の棟梁としての清和源氏の名は不動のものとなり、江戸時代の徳川氏に至るまで、武力によって政治権力を握ろうとする者のなかには、清和源氏の子孫であると主張する者が多かった。鎌倉幕府の滅亡に際して活躍した新田(にった)氏や、室町幕府を開いた足利(あしかが)氏は、義家の子義国(よしくに)の流れであり、また義家の弟義光(よしみつ)からは常陸(ひたち)の佐竹(さたけ)氏、甲斐(かい)の武田(たけだ)氏などが出ている。

[安田元久]

宇多源氏

宇多天皇の皇子斉世(ときよ)親王、敦慶(あつよし)親王、敦固(あつかた)親王、敦実(あつざね)親王の子がそれぞれ源姓を賜ったことに始まる。このうち敦実親王の子雅信(まさのぶ)の子孫がもっとも繁栄した。雅信の長子時中(ときなか)の子孫は蹴鞠(けまり)や郢曲(えいきょく)、和琴(わごん)・箏(そう)・笛・琵琶(びわ)などの楽器に堪能(たんのう)で、綾小路(あやのこうじ)氏、庭田(にわだ)氏などはこの流れから出る。雅信の四男時方(ときかた)は大原を称し、その子孫には五辻(いつつじ)、慈光寺(じこうじ)、春日(かすが)の諸氏が出る。これらの公家(くげ)に対し、雅信の次子扶義(すけよし)の子成頼(しげより)は近江国(おうみのくに)佐々木庄(ささきのしょう)(滋賀県蒲生(がもう)郡)に土着し、子孫は代々この地を本拠地として武士化し、佐々木氏を称した。これが近江源氏で、佐々木秀義(ひでよし)の子定綱(さだつな)以下の佐々木兄弟は、源頼朝の挙兵以来その麾下(きか)にあって鎌倉幕府創立に功があり、近江などの守護職(しゅごしき)を与えられて栄えた。定綱の系統はのちに六角(ろっかく)氏、京極(きょうごく)氏などの有力な武家に分かれた。

[安田元久]

村上源氏

村上天皇の皇子具平親王(ともひらしんのう)の子師房(もろふさ)が源姓を賜ったのに始まり、子孫は公家として朝廷に栄えた。師房とその子俊房(としふさ)・顕房(あきふさ)は、藤原道長(ふじわらのみちなが)との姻戚(いんせき)関係から左右大臣を歴任、顕房の系統は摂関時代から院政時代にかけて朝廷の要職を占めた。顕房の曽孫(そうそん)明雲(みょううん)は、平氏全盛期に天台座主(ざす)となり、玄孫通親(みちちか)は鎌倉初期に京都政界で反鎌倉派の中心人物として、親鎌倉派の九条兼実(くじょうかねざね)を失脚させた。通親の子孫は堀川、久我(こが)、土御門(つちみかど)、中院(なかのいん)、六条(ろくじょう)、千種(ちぐさ)、北畠(きたばたけ)などの諸家に分かれた。嫡流久我家は七清華(しちせいが)(大臣・大将を兼ね、太政大臣(だいじょうだいじん)に進む家柄の7家。五摂家に次ぐ家柄)の一つ。北畠氏からは親房(ちかふさ)が出て、鎌倉末期以後南北朝内乱期にその一族とともに南朝の支柱として活躍した。親房の子顕能(あきよし)は伊勢(いせ)国司となり、その子孫は代々伊勢国司家として、室町時代を通じて南伊勢に勢力を振るった。

[安田元久]

花山源氏

花山天皇の曽孫顕康(あきやす)が源姓を賜ったのに始まる。子孫は代々白川(しらかわ)家を称し、神祇伯(じんぎのかみ)(神祇官の長官)を世襲して明治に至る。神祇伯在任中は~王と称するのが通例であったので、白川王家または白川伯家ともいう。戦国時代以降は神祇大副(おおすけ)(神祇官の次官)の吉田家に圧倒された。

[安田元久]

『渡辺保著『源氏と平氏』(1955・至文堂)』『安田元久著『武士団』(1964・塙書房)』『安田元久著『源平の争乱』(1966・筑摩書房)』


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