渋谷重国(読み)しぶや・しげくに

朝日日本歴史人物事典 「渋谷重国」の解説

渋谷重国

生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将秩父氏一族。父祖は川崎,小机,中山を名乗り秩父から南下し,応保年間(1161~63)前後「渋谷荘司」と渋谷荘(神奈川県綾瀬市等)下司職に補任され名乗りとした。平治の乱後,佐々木秀義をかくまうなど源氏と通じ,源頼朝の挙兵の折も秀義の子・定綱らの身柄を保護した。頼朝の関東平定後に頼朝方となり鎌倉幕府御家人の地位に列した。『吾妻鏡』では,建久5(1194)年の鎌倉永福寺の御堂供養への伝馬供出の記事が最後の記事である。族縁関係は,『真名本曾我物語』は重国と和田義盛の妻は姉妹の関係にあったと伝える。伝重国の墓塔は綾瀬市長泉寺にある。<参考文献>『綾瀬市史』

(福島金治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渋谷重国」の解説

渋谷重国 しぶや-しげくに

?-? 平安後期-鎌倉時代の武将。
河崎重家の子。相模(さがみ)(神奈川県)渋谷荘の荘司(しょうじ)となり,渋谷荘司を名のる。源頼朝挙兵の際,石橋山戦い平家に属したが,のち頼朝につかえ,御家人となる。元暦(げんりゃく)2年(1185)源範頼(のりより)にしたがい,豊後(ぶんご)(大分県)で原田種直をうった。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の渋谷重国の言及

【渋谷氏】より

…相模国渋谷荘を本領とする中世の武家。桓武平氏の一流秩父氏のうち南武蔵に進出した河崎冠者基家の一族がさらに相模国に展開し,基家の孫重国が渋谷荘司となって渋谷氏を称した。重国は1180年(治承4)の源頼朝挙兵の際平家方にくみしたが,かねてから扶養していた佐々木一族が頼朝に参じ石橋山から敗走してくると,再びこれをかくまい平家方の捜索から守ったという経緯や,頼朝の麾下(きか)に転じて以後の平家追討戦における戦功によって,相模の〈大名〉の地位を維持し,一族も頼朝から所領の年貢免除等の優遇措置をうけた。…

※「渋谷重国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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