渋川義俊(読み)しぶかわよしとし

改訂新版 世界大百科事典 「渋川義俊」の意味・わかりやすい解説

渋川義俊 (しぶかわよしとし)
生没年:1400-34(応永7-永享6)

室町前期の武将。満頼の子。九州探題。父に代わって探題となったのは1419年(応永26)とされている。歳遣船等により朝鮮とも交易したが,彼の九州経営はおおむねふるわず,23年少弐満貞に敗れたことが探題渋川氏衰亡の直接的な契機となった。探題の弱体化幕府による筑前直轄領(料国)化を促し,また大内氏に探題の代替者たる役割を果たさせる原因となった。
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朝日日本歴史人物事典 「渋川義俊」の解説

渋川義俊

没年:永享6.11.14(1434.12.14)
生年:応永7(1400)
室町時代前期の武将。父は満頼。左近将監。応永26(1419)年九州探題に補任される。この年,倭寇の取り締まりを巡って,朝鮮が対馬軍勢を進めるという事件(応永の外寇)が起こったが,義俊はこれを防いだ。30年5月に少弐満貞と博多で戦い敗れて肥前に退いた。この敗戦を契機として九州探題の権勢は急速に衰え始めた。32年再び少弐氏と刃を交えたが,またまた敗退した。筑後国酒見城で死去。義俊の死後,九州探題は朝鮮交易でも主導権を喪失し,渋川氏は九州統括の実体を失い,東肥前をわずかに支配する勢力となってしまった。<参考文献>川添昭二「九州探題の衰滅過程」(『九州文化研究所紀要』23号)

(伊藤喜良)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渋川義俊」の解説

渋川義俊 しぶかわ-よしとし

1400-1434 室町時代の武将。
応永7年生まれ。渋川満頼(みつより)の子。応永26年父にかわり九州探題となる。朝鮮軍の対馬(つしま)侵攻(応永の外寇(がいこう))を少弐(しょうに)満貞とともにしりぞけたのち,朝鮮との交易をすすめる。30年満貞に博多で敗れ,渋川氏の勢力は急速におとろえた。永享6年11月14日死去。35歳。通称は次郎。

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世界大百科事典(旧版)内の渋川義俊の言及

【歳遣船】より

…本来は朝鮮との修好のために渡航した船であったが,使人としての待遇をうけるとともに貿易をすることを許されていたので,実質は使船というよりも貿易船とよぶのがふさわしいものであった。1424年(応永31∥朝鮮世宗6)に九州探題渋川義俊が朝鮮に提案して毎年2隻ずつ船を送ることを約したのが歳遣船の起源とされ,40年(永享12∥世宗22)に小早川持平が毎年歳遣船を送ることを許されたのが記録上の初見とされている。43年(嘉吉3∥世宗25)の嘉吉条約では,対馬島主の歳遣船は50隻,やむをえぬ報告を必要とする事件が起きたときは規定外に特送船を渡航させることができると規定された。…

※「渋川義俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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