清洲城(読み)キヨスジョウ

デジタル大辞泉 「清洲城」の意味・読み・例文・類語

きよす‐じょう〔‐ジヤウ〕【清洲城】

清須市にあった城。室町時代は尾張守護代の織田氏居城。のち、織田信長とその子信雄のぶかつ豊臣秀次福島正則松平忠吉徳川義直城主が変わったが、慶長15年(1610)義直が名古屋城に移り、廃城。清須城

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日本の城がわかる事典 「清洲城」の解説

きよすじょう【清洲城/清須城】

愛知県清須市(旧西春日井郡清洲町)にあった平城(ひらじろ)。1405年(応永12)、尾張・遠江(とおとうみ)・越前守護を兼ねていた室町幕府の管領、斯波義重(しばよししげ)によって、守護所となっていた下津(おりづ)城(稲沢市)の別郭として築かれた。その後、守護代の織田氏の内紛により下津城が焼失すると、守護所が置かれ、尾張国の中心となった。やがて、清洲城は尾張下四郡を支配する守護代の清洲織田氏の居城となる。一時期、織田弾正忠家(清洲織田氏の傍流、清洲織田氏の三奉行のひとつ)の織田信秀(織田信長の父)が清洲奉行として居城したが、信秀が古渡城名古屋市中区)に移ると、守護代の織田信友が入城した。しかし、1555年(弘治1)、信友は織田信長によって清洲城中で殺害され、信長は大改修を加えた後、那古野城(名古屋市中区)から清洲城に本拠を移した。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、信長はこの城から出陣している。また、1562年(永禄5)に信長が徳川家康と同盟を結んだのもこの城で、清洲同盟と呼ばれる。信長は翌1563年(永禄6)、美濃の斎藤氏との戦いに備えて、居城を小牧山城に移した。以後、清洲城は織田氏の番城となった。1582年(天正10)の本能寺の変で信長と嫡男信忠が死去すると、その後の相続をめぐって織田氏重臣による会議(清洲会議)が開かれたのもこの城である。その後、清洲城は信長次男の織田信雄が相続し、1586年(天正14)には大天守・小天守や二重堀の普請が行われた。その後、信雄は小田原合戦に際して豊臣秀吉に反抗したことから除封され、豊臣秀次が領したのち、1595年(文禄4)には福島正則が城主として入城した。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、福島正則が東軍(徳川方)に与したことから、東軍の前線拠点となり、この戦いの後、安芸に転封した福島正則に代わって家康の四男松平忠吉が入城、間もなく忠吉が死去すると、家康九男の徳川義直が入城し、尾張清洲藩の藩庁が置かれた。1609年(慶長14)、義直は家康の命により名古屋での新城の築城城下町の移転を行った。その名古屋城(名古屋市中区~北区)の築城に清洲城を解体した資材が用いられた。名古屋城の御深井丸西北隅櫓が「清洲櫓」と呼ばれるのは、清洲城天守の材料を転用して建設されたことによる。1613年(慶長18)、名古屋城が完成し、城下町の移転も終わったことから、清洲城は廃城となった。現在、城跡は都市開発によりほぼ失われ、本丸土塁の一部が残るだけになっている。かつての城域の一部は、清洲古城跡公園になっており、模擬天守があるほか、城跡の横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、同公園内に復元されている。JR東海道本線清洲駅から徒歩約15分、または名鉄名古屋本線新清洲駅から徒歩約15分。◇清須城とも記述される。

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百科事典マイペディア 「清洲城」の意味・わかりやすい解説

清洲城【きよすじょう】

尾張国春日井(かすがい)郡清須(愛知県清須市)にあった中世から近世の城。1478年頃尾張守護代織田敏定により守護所が下津(おりづ)(現愛知県稲沢市)から移されたのが城の始まりとされる。ただし1418年に清須を訪れた僧正徹は織田氏のものとみられる居館に滞在している。1483年には守護斯波(しば)義良が清洲城に迎えられ,以後守護・守護代が在城,城内には織田一族の屋敷もあった。1553年守護斯波義統は守護代織田信友に殺され,1555年信友は織田信長に討たれた。以後信長は清洲城を本拠とし,1563年の小牧山城(現愛知県小牧市)移転まで在城した。1582年の本能寺の変後の清洲会議で信長の次男織田信雄が尾張を領することとなり,清洲城に入った。1590年信雄が領地を没収されると代わって豊臣秀次が入城。1595年の秀次刑死後は福島正則,1600年の関ヶ原の戦後正則が安芸広島へ移されると徳川家康の四男松平忠吉が入封した。忠吉は1607年継嗣のないまま没し,その後には異母弟徳川義利(徳川義直)が封ぜられることとなった。だが1610年城地が川の氾濫などで不安定なことを理由に名古屋への城地移転が決定。1614年までに城内のすべて,神社・寺院,城下町,橋に至るまで名古屋へ移転した。跡地が開墾され,また近代になってからの東海道線開通により城跡が分断されたことから,遺構は明瞭でない。
→関連項目清洲[町]清洲会議名古屋藩

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清洲城」の意味・わかりやすい解説

清洲城
きよすじょう

戦国期~江戸初期の城。愛知県清須(きよす)市清洲にあった。清須城とも書かれる。城が初めて築かれたのは1405年(応永12)といわれ、尾張(おわり)国守護斯波(しば)氏が、尾張の中心であり交通上の要衝でもあるこの地を選んだものである。1554年(天文23)斯波義統(よしむね)・義銀(よしかね)父子が守護代織田信友(のぶとも)に城を追われ、さらに翌年織田信長が信友を攻め清洲城に入った。以来10年間、1563年(永禄6)に城を小牧山(こまきやま)に移すまで信長の本城であった。82年(天正10)信長が本能寺(ほんのうじ)で死んだあと、ここで清洲会議が開かれ、信長の二男信雄(のぶかつ)が入った。信雄のときに城が拡張され、その後羽柴秀次(はしばひでつぐ)、さらに福島正則(まさのり)、徳川家康の子忠吉(ただよし)・義直(よしなお)が入ったが、名古屋に新城築城ののち廃城となった。

[小和田哲男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清洲城」の意味・わかりやすい解説

清洲城
きよすじょう

愛知県清須市にあった平城。室町時代,尾張守護斯波義重による築城が最初。守護代織田氏が戦国争乱中に斯波氏を追い,さらに織田氏内紛を経て織田信長が天文 23 (1554) 年以降ここを居城とした。信長が岐阜城に移ったのちは信忠が城主となったが,本能寺の変後,信雄,豊臣秀次,福島正則,松平忠吉,徳川義直と城主が変わり,義直が名古屋城に移るにいたって,慶長 15 (1610) 年廃城となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「清洲城」の解説

清洲城
きよすじょう

愛知県西春日井郡清洲町にあった城
応永年間(1394〜1428)に尾張国守護斯波 (しば) 義重が築城,以後斯波氏の居城となった。1555年以降,織田信長の拠城として繁栄したが,1610年徳川義直が名古屋城を築いて移転し,廃城となった。

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世界大百科事典(旧版)内の清洲城の言及

【清須城】より

…1418年(応永25)歌僧正徹の旅行記には清須に尾張守護の居館のあったことが記されている。城館は78年(文明10)ころ守護代織田敏定が守護所を下津(おりつ)から清須に移したのに始まり,85年には清洲城と呼ばれている。83年に守護斯波義良が迎えられて以後義達,義統と続いたが,1553年(天文22)義統は守護代織田信友に殺され,その子義銀が織田信長に援を求めたので,55年(弘治1)信長は信友を討って清須城に入った。…

※「清洲城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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