清水寺(きよみずでら 京都市)(読み)きよみずでら

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

清水寺(きよみずでら 京都市)
きよみずでら

京都市東山(ひがしやま)区清水にある法相(ほっそう)宗大本山。山号は音羽山(おとわさん)。古くは北観音(きたかんのん)寺とも称した。西国(さいごく)三十三所第16番札所。『清水寺縁起』によると、大和(やまと)(奈良県)小島(こじま)寺の延鎮(えんちん)が修行の途次、夢告によって山城(やましろ)国愛宕(おたき)郡八坂郷東山の麓(ふもと)にきて、そこを霊勝の地として練行しているとき、狩猟中の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に会い、その妻高子のために加持祈祷(かじきとう)を行って効験があった。のち田村麻呂の助力を得て観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を安置するため伽藍(がらん)を造営したのに始まるという。平安初期の年紀をもつ『清水寺建立記』によれば、田村麻呂が、産女(うぶめ)のために鹿を求め屠(ほふ)ったところ、一沙門(しゃもん)に殺生(せっしょう)の罪を諭される。このことを高子に語ったところ、高子が無量の罪を懺悔(ざんげ)するため、家を壊して仏殿を建て、観世音菩薩を安置させたという。田村麻呂が東国遠征に際して延鎮に国家平定を祈るよう依頼し、平定なるとこれを仏徳によるものとし、延鎮を内供奉(ないぐぶ)十禅師に推し、寺地を施入(せにゅう)したという。一説には創建を780年(宝亀11)とする。清水寺は坂上氏の氏寺であったと思われる。805年(延暦24)桓武(かんむ)天皇の御願寺(ごがんじ)となり、810年(弘仁1)には鎮護国家の道場とされた。奈良の興福寺に属し、延暦(えんりゃく)寺に属する祇園感神院(ぎおんかんじいん)(八坂神社)と、南都北嶺(なんとほくれい)の最前線としてたびたび争い、堂塔はしばしば災火にあったが、そのつど再建された。幕末の住職に勤皇僧月照(げっしょう)がいた。

 現在の本堂(国宝)は1633年(寛永10)徳川家光(いえみつ)による再建で、創建時の姿を伝えるとみられる懸造(かけづくり)の広い舞台は「清水の舞台」として名高い。また、仁王門、馬駐(うまとどめ)(以上は室町時代)、鐘楼(桃山時代)、西門、三重塔、経堂、開山堂、朝倉堂、釈迦(しゃか)堂、阿弥陀(あみだ)堂、奥の院(以上は江戸時代)など国の重要文化財指定の建物が連なり、境内は公園風となっている。本堂の北にある本坊の成就院は月照と弟子信海の住したところで、その庭園は東山を借景とした池泉観賞式の名園である。本尊十一面観音像(国重要文化財)は、奈良の長谷寺(はせでら)、近江(おうみ)(滋賀県)の石山寺と並ぶ観音霊場として信仰を集めた。『今昔(こんじゃく)物語集』には、貧乏な女が清水の観音に祈ったところ、金、好運、男などを得て幸福になった話がある。また紫式部、伊勢大輔(いせのたゆう)が同時に参籠(さんろう)したときの歌があり、清少納言や『更級(さらしな)日記』の作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)なども参籠しており、観音菩薩の霊験(れいげん)は古典文学にも多く紹介されている。奥の院の下にかかる「音羽の滝」は寺名の由来をなし、病に効くとしていまなお祈誓する者が多い。堂内には多くの絵馬が奉納されており、とくに航海の安全を祈った絵馬「渡海(とかい)船額」4面(末吉(すえよし)船図3、角倉(すみのくら)船図1)は有名で、国重要文化財である。清水寺は1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は二条城など17社寺・城が一括登録されている)。

 おもな年中行事に、観音縁日(毎月17、18日)、修正会(しゅしょうえ)(1月1~7日)、修二会(しゅにえ)(2月1~3日)、開山忌(5月23日)、千日参り(8月9~16日)、仏名会(ぶつみょうえ)(12月1~3日)がある。

[田村晃祐]


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