清水善造(読み)しみずぜんぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「清水善造」の意味・わかりやすい解説

清水善造
しみずぜんぞう
(1891―1977)

日本テニス史初期を飾る国際的選手。群馬県出身。東京高等商業学校(現在の一橋大学)庭球部主将(軟式)として活躍。学生時代の壁打ち猛練習から生み出されたモットー、4CON(コン)(Concentration, Combination, Control, Confidence)は、その忍耐力と不屈の精神とともに有名。1912年(大正1)三井物産入社に伴いインドのカルカッタ(現コルカタ)出張所に配属、硬式テニスを始める。13年よりベンガル選手権5回優勝。17年出張先のブエノス・アイレスで南米選手権優勝。20年ウィンブルドン全英選手権2位。フェアプレーの精神とスマイリー・シミー愛称で一躍人気者になる。21年日本初出場デビスカップ熊谷一弥(くまがいいちや)(1890―1968)とともにチャレンジ・ラウンド進出という偉業をなす。この年マイヤーズ・ローンテニス年鑑世界ランキング4位。長年日本テニス界の指導者として活躍した。

[久保圭之助]

『上前淳一郎著『やわらかなボール』(1982・文芸春秋)』

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改訂新版 世界大百科事典 「清水善造」の意味・わかりやすい解説

清水善造 (しみずぜんぞう)
生没年:1891-1977(明治24-昭和52)

国際的に活躍したテニス選手。群馬県出身。東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業後,軟式テニスから硬式テニスに転じ,三井物産の社員としてインド在勤中の1913年にベンガル選手権に初優勝した。20年6月イギリスのウィンブルドン大会に日本人として初出場し,いきなり選手権者への挑戦権を決定するオールカマーズ決勝まで進出,当時のテニス王W.T.ティルデンを相手に善戦し,センターコートをわかせた。〈シミー〉の愛称で親しまれ,その変則的なグリップとフォームのため〈ふしぎなテニス〉と評された。21年フォレスト・ヒルズ(アメリカ)でのデビス・カップ大会初参加の日本チームに熊谷一弥,柏尾誠一郎とともに加わり,インド,オーストラリアを破り,アメリカとチャレンジ・ラウンドを戦った。このときの対ティルデン戦で,足を滑らせたティルデンに緩いボールを返したのが美談となり,〈スポーツマンの精神〉などの題で教科書に載った(その後,真相は違うという説も出されている)。1921年度世界ランキング4位。アメリカ庭球名誉会員。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清水善造」の意味・わかりやすい解説

清水善造
しみずぜんぞう

[生]1891.3.25. 群馬
[没]1977.4.12. 大阪
テニス選手。東京高等商業学校卒業。三井物産の社員としてインド駐在中の 1913年,ベンガル選手権大会に優勝し,以後同選手権を5回獲得した。 1920年ウィンブルドン選手権大会に日本から初参加,準決勝に進み,「世界の庭球王」といわれたビル・チルデンに善戦したが敗れた。 1921年デビスカップ熊谷一弥,柏尾誠一郎とともに初出場,1926,1927年にも出場し活躍した。同年『デイリーテレグラフ』 Daily Telegraphのテニス世界ランキングで第4位となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清水善造」の解説

清水善造 しみず-ぜんぞう

1891-1977 大正-昭和時代のテニス選手。
明治24年3月25日生まれ。三井物産入社後,軟式から硬式テニスに転じ,大正9年ウィンブルドン大会の挑戦者決定戦でチルデンに善戦。翌年,日本初参加のデビスカップに熊谷一弥(くまがい-いちや)らと出場。同年世界ランキング4位。昭和2年まで6回デ杯代表となる。昭和52年4月12日死去。86歳。群馬県出身。東京高商(現一橋大)卒。

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