清川八郎(読み)きよかわはちろう

精選版 日本国語大辞典 「清川八郎」の意味・読み・例文・類語

きよかわ‐はちろう【清川八郎】

幕末勤王志士。名は正明変名を大谷雄蔵・日下部達三という。羽前の人。安積艮斎(あさかごんさい)儒学千葉周作武術を学び、尊王攘夷運動奔走寺田屋事件後、京都警衛の浪士組(新選組)に加わったが、幕府に嫌われ、暗殺された。著「旦起私乗」。天保元~文久三年(一八三〇‐六三

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デジタル大辞泉 「清川八郎」の意味・読み・例文・類語

きよかわ‐はちろう〔きよかはハチラウ〕【清川八郎】

[1830~1863]幕末の志士。庄内藩郷士の子。はじめ尊王攘夷運動に参加したが、寺田屋事件に失望して幕府の浪士組結成に参加。近藤勇らと対立して暗殺された。

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百科事典マイペディア 「清川八郎」の意味・わかりやすい解説

清川八郎【きよかわはちろう】

幕末の志士。出羽(でわ)庄内藩の郷士の子。江戸文武を学び,全国を遊歴ののち江戸で開塾。桜田門外の変後は志士として奔走,1861年江戸での挙兵計画が洩れ,潜行を余儀なくされる。九州で真木和泉平野国臣らの尊攘派と交わり,1862年島津久光上京に合わせて挙兵を画策するが寺田屋事件で失敗。1863年幕府の浪士組結成に参加,京都に上ったが,近藤勇土方歳三ら佐幕派と対立し,江戸に送還され幕吏に暗殺された。旅日記《西遊草》がある。→新徴組
→関連項目新撰組千葉周作山岡鉄舟

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改訂新版 世界大百科事典 「清川八郎」の意味・わかりやすい解説

清川八郎 (きよかわはちろう)
生没年:1830-63(天保1-文久3)

幕末の志士。庄内藩領出羽国東田川郡清川村の郷士斎藤治兵衛の三男地名をとって清川正明・清川八郎と称し,のち大谷雄蔵・日下部達三の変名を用いた。18歳で江戸に出て,東条一堂,安積艮斎,千葉周作らの門に入って文武を修めた。一方で九州から北海道にわたる旅をして見聞を広め,江戸神田お玉ヶ池に塾を開き子弟の教育にあたった。1860年(万延1)桜田門外の変後に志士となり,各地の志士と交わる。江戸における挙兵計画が幕府に知られて追われる身となるが,各地に潜行しつつ活動を続けた。62年(文久2)九州の志士と交わり島津久光の上洛を利用した挙兵を画策するが,寺田屋事件で失敗して江戸に帰る。翌年春,幕府の浪士募集に応じて浪士隊入りし再び上洛するが,尊攘派と結んだため江戸に戻され新徴組に編入された。63年4月13日幕吏佐々木只三郎らにより麻布一ノ橋にて暗殺された。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清川八郎」の解説

清川八郎 きよかわ-はちろう

1830-1863 幕末の武士。
文政13年10月10日生まれ。出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)郷士。安積艮斎(あさか-ごんさい)らに儒学を,千葉周作に剣術をまなぶ。文久3年幕府の浪士組にくわわり京都で活動するが,攘夷(じょうい)を主張して江戸にもどされる。同年4月13日麻布(あざぶ)一之橋で幕臣の佐々木只三郎(たださぶろう)らに暗殺された。34歳。本姓は斎藤。名は正明。姓は清河ともかく。著作に「西遊草」「潜中紀事」。
【格言など】聖堂より大豪傑の出たることなし(父あての書簡)

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367日誕生日大事典 「清川八郎」の解説

清川八郎 (きよかわはちろう)

生年月日:1830年10月10日
江戸時代末期の尊攘派志士
1863年没

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