新撰 芸能人物事典 明治~平成 「淡谷 のり子」の解説
淡谷 のり子
アワヤ ノリコ
- 職業
- 歌手
- 本名
- 淡谷 規子
- 生年月日
- 明治40年 8月12日
- 出生地
- 青森県 青森市浜町
- 学歴
- 東洋音楽学校(東京音楽大学)声楽科〔昭和4年〕卒
- 経歴
- 生家は青森の呉服店・大五河波屋で2人姉妹の長女。農民運動家で社会党の衆院議員となった淡谷悠蔵は10歳年長の叔父にあたる。明治43年の青森の大火をきっかけに生家は没落し、大正12年離婚した母と妹とで上京。東洋音楽学校(東京音楽大学)に入り、学生時代は霧島のぶ子の名で画家のモデルもして生計を援けた。昭和4年同校初の女性の首席として声楽科を卒業した後、ポリドールに入社して「夜の東京」で流行歌歌手としてデビュー。流行歌を歌ったからとして母校の卒業生名簿から名前を削られたことは有名。6年コロムビアに移籍、同年「私此頃憂鬱よ」が初のヒット曲となる。7年満州、上海と初の海外公演を行った。12年「別れのブルース」が大ヒット、13年には「雨のブルース」もヒットし、“ブルースの女王”といわれた。日中戦争が本格化し、他の歌手たちが軍歌や軍国歌謡を歌う中でも、戦争讃美の歌を拒絶、街に“ぜいたくは敵だ”との標語があふれ注意を受けても“化粧や派手な服装は歌手の戦闘準備であって贅沢ではない”と突っぱねた。また、軍隊の慰問を行う際も、“好きな歌を歌うことを弾圧する軍から金をもらいたくない、無料奉仕なら何の歌を歌おうとかまわないではないか”という信念のもと、無料奉仕で各地を回り、信念を貫き通した。「別れのブルース」「雨のブルース」などのヒット曲は哀調で戦時下にふさわしくないと禁止されていたが、戦地では兵隊たちから強いリクエストを受けてそれらの曲を歌い、監視の将校たちは居眠りのふりをしたり、席を外したりして見て見ぬふりをし、担当将校を涙させたこともあった。20年コロムビアから一方的に契約を解除され、5月の空襲で自宅を失い、8月巡業中の山形県で敗戦を迎えた。21年コロムビアからの再契約の申し込みを拒否し、テイチクと契約。23年「嘆きのブルース」「君忘れじのブルース」などがヒットし、また「枯葉」「愛の讃歌」などシャンソンを好んで歌うようになった。26年ビクター、36年東芝に移籍。46年いずみたくと12人の作詞家によるLP「昔、一人の歌い手がいた」を発売、日本レコード大賞特別賞を受けた。47年紫綬褒章を受章。54年から渋谷のジャンジャンに出演。62年には80歳を迎えて、全国80ケ所コンサートに取り組み、85歳の時、現役最高齢で「揺り椅子」を発表。歯に衣着せぬ発言で、芸能界の御意見番的存在としても知られた。平成5年一過性脳虚血で倒れ、体調不良を理由に“休養宣言”。11年9月老衰のため92歳で亡くなった。著書に「老いてこそ人生は花です」「私のいいふりこき人生」など。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和47年〕,勲四等宝冠章〔昭和54年〕 日本レコード大賞特別賞(第13回)〔昭和46年〕「昔、一人の歌い手がいた」,佐藤尚武郷土大賞〔昭和47年〕,NHK放送文化賞(第27回)〔昭和51年〕,青森市制施行八十周年記念文化賞〔昭和53年〕,芸能功労者表彰(第9回)〔昭和58年〕,日本作詩大賞特別賞(第20回)〔昭和62年〕,青森市名誉市民〔平成10年〕
- 没年月日
- 平成11年 9月22日 (1999年)
- 親族
- 叔父=淡谷 悠蔵(農民運動家・衆院議員),またいとこ=淡谷 まり子(弁護士)
- 伝記
- 別れのブルース―淡谷のり子 歌うために生きた92年演歌の達人―高音(ハイノート)の哀しみ昭和のすたるじい流行歌(はやりうた)―佐藤千夜子から美空ひばりへ老いてこそ人生は花ブルースの女王淡谷のり子わすれられない戦争―4人が語る慰問の話人生のプラットホーム―歌ひと筋に生きてしたたかな調べ歌わない日はなかったニセモノとホンモノ 吉武 輝子 著佐藤 禀一 著塩沢 実信 著淡谷 のり子 著吉武 輝子 著阿部 和江 著二葉 あき子 著浜坂 福夫 著淡谷 のり子 著淡谷 のり子 著(発行元 小学館智書房,星雲社〔発売〕第三文明社海竜社文芸春秋文園社東京新聞出版局東京新聞出版局婦人画報社ロングセラーズ ’03’01’91’91’89’89’88’88’88’86発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報