海関(読み)カイカン

デジタル大辞泉 「海関」の意味・読み・例文・類語

かい‐かん〔‐クワン〕【海関】

海港に置かれた税関。本来、代の中国で外国貿易のための開港場に設けられたものをいう。

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精選版 日本国語大辞典 「海関」の意味・読み・例文・類語

かい‐かん ‥クヮン【海関】

〘名〙
海辺に設けた関所。〔古列女伝‐節義伝・珠崖二義〕
② 開港場に設けた税関。もと、中国の清代に設けられたものをいった。
明六雑誌‐二三号(1874)正金外出歎息録〈神田孝平〉「正金来入の道は甚だ少なし。に海関礦山の二途あるのみ」 〔清会典事例‐戸部・関税・直省関差〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「海関」の意味・わかりやすい解説

海関
かいかん

中国、清(しん)朝が外国貿易のために置いた関税徴収機関。

[浜下武志]

アヘン戦争以前

清朝初期に海寇(かいこう)防衛を目的として海禁策がとられたが、1685年に至り、江(上海(シャンハイ))、浙(せつ)(寧波(ニンポー))、閩(びん)(厦門(アモイ))、粤(えつ)(広州)の4海関が設置された。粤海関には中央から監督を特派し、納税は特許商人たる公行に請け負わせて巨利をあげた。1757年からは外国貿易を広州(広東(カントン))1港に限ったが、貨物税および船舶税以外の多額の付加税や手数料、さらにはアヘン問題で外国と軋轢(あつれき)を生じた。

[浜下武志]

アヘン戦争以後

1842年の南京(ナンキン)条約により、上海、寧波、福州、厦門、広東が開かれ、従価5%税などの片務的税率が施行された。開港直後は各国領事が自国商人から徴収したが、51年からは中国側海関道がその任にあたった。53年、小刀会(しょうとうかい)の乱により上海の江海関が閉鎖されると、イギリス、アメリカ、フランス3国の領事が輸出入税を代徴し、翌年上海道台による徴収に復したが、通商条約の履行問題に関する外国側の不満は絶えなかった。

[浜下武志]

外国人税務司制度

1854年、上海道台呉健彰は、イギリス領事オールコックR. Alcockが提案したイギリス、アメリカ、フランス3国の代表からなる関税管理委員会の設置を受け入れ、ここに外国人税務司による海関管理が始まった。58年の天津(てんしん)条約に伴う通商条約の改定に際し、各開港場に外国人税務司が配置され、イギリス人レイH. Layが初代海関総税務司に任命された。60年に総理衙門(がもん)が新設されると海関もその管轄下に移り、63年にはイギリス人ロバート・ハートR. Hartが総税務司となった。彼はいわゆる治外法権的中国官吏として、40余か所に及ぶ海関運営の拡充を図ると同時に、海関税が清朝政府の対外借款の担保として重要性を増すに伴い、借款交渉の仲介を果たした。

[浜下武志]

海関機構

中央機関たる総税務司署の下に徴税部、海事部、工務部が置かれ、1882年以降、海関郵政部も運営され、後の大清郵政局の基となった。また、統計処からは貿易統計をはじめ各種報告類が発行された。税則は、従価5%の輸出入税のほか、通過税としての子口半税、沿岸貿易税(復進口税)、トン税(船鈔(せんしょう))などからなり、1858年にアヘン輸入が公認されてからはアヘンには別途課税された。98年イギリス公使マクドナルドは総理衙門に対し、総税務司につねにイギリス人を任用すべきことを約させ、イギリスの権限を確立した。海関は、1906年に税務処の下に、また民国以降は財政部および税務処の下に統轄された。

[浜下武志]

関税自主権問題

1858年以降、1902年のマッケー条約で税率は再改定されたが、民国以降は関税自主権の回復が強く主張された。22年のワシントン会議を経て、25年の北京(ペキン)特別関税会議で承認され、28年各国別に、30年中日関税協定により最終的に回復を達成した。同年海関金単位制が採用され、31年最初の国定輸出入税率が制定された。

[浜下武志]

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改訂新版 世界大百科事典 「海関」の意味・わかりやすい解説

海関 (かいかん)
hǎi guān

中国,海港におかれた税関。常関(旧関)と洋関(新関)とあり,19世紀中期をはさんで2段階に分かれる。1685年(康煕24),清朝は海禁を解除し,粤(えつ)(広州),閩(びん)(漳州),浙(せつ)(寧波(ニンポー)),江(上海)の4海関をおいて,中国人の沿海貿易と外国人の朝貢貿易を管理し,関税を徴収した。関税徴収は特許貿易商の公行Cohongが代行した。長官は監督で,満人官僚が任命された。海関の沿革は古く,唐・宋時代以来の市舶司制度にもとめられる。1757年(乾隆22),外国貿易は広州1港に制限され,いわゆる広東Canton貿易がはじまる。関税は船税(船鈔,入港税)と貨税(物品税)があるが,正税・付加税のうえに規銀という多額の非公式礼金を支払わされた。輸出茶1ピクル(約60kg)につき,正税1両,付加税3両が,実徴額は6両にもなり,イギリス人はこれを不当として引下げを要求し,のちアヘン戦争開戦の要因の一つになった。

 アヘン戦争後,5港が開港され,洋関がおかれたが(各常関に並置),太平天国がおこると,上海海関に英米仏人による関税管理委員会が設けられ,1858年(咸豊8),英清天津条約の通商章程により洋関の外国人管理がはじまった。すなわち海関は北京駐在の外人総税務司の下に,各港の海関に税務司以下の外人職員をおいて管理し,清朝側の海関監督は名目的存在となった。外人総税務司は,新設の総理衙門(がもん)に直属し,海関税収入を管理したが,以来海関税収入は着実に増加し,清朝財政の一大収入源となるとともに,その後,李鴻章ら地方大官が導入した洋式産業の資金源となった。19世紀末の日清戦争,義和団事件以後,海関税はさらに賠償金および外債の担保となった。20世紀となり民国以後,民族主義の高まりにつれて,関税自主権の回復運動もあったが,海関の外人管理は中華人民共和国の発足までつづいた。
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百科事典マイペディア 「海関」の意味・わかりやすい解説

海関【かいかん】

中国,清代以降開港場に設置された税関。1685年の海禁解除に際し,粤(えつ)(広州)・【びん】(【しょう】州)・浙(せつ)(寧波(ニンポー))・江(上海)の4海関を設置したのに始まる。関税徴収は特許貿易商の公行が代行した。1757年貿易を広州1港に限定して以後は粤海関のみ存続。1842年アヘン戦争後の南京条約で5港が開港されてのち,上海などで外国人税務司を加えた新制度の海関を設置。1858年の天津条約で外国人税務司制度が制度化され,中華人民共和国の成立まで存続。
→関連項目市舶司

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海関」の意味・わかりやすい解説

海関
かいかん
hai-guan; hai-kuan

中国,朝が海港に設けた税関。康煕 24 (1685) 年海禁を解いて外国貿易を許し,粤 (えつ。広州) ,閩 (びん。 漳州) ,浙 (寧波) ,江 (上海) の4海関を設け,監督をおいて内外の関税を徴収したのに始る。アヘン戦争後,広州1港から5港への開放,公行制の廃止,関税協定などの新条約が結ばれたが,海関事務は満人官吏にまかされて旧態依然のものであった。太平天国の乱に際し,咸豊4 (1854) 年上海で外国人に海関を管理させる外国人税務司制度がとられ,同8年の天津条約の通商協定で全海関に適用され,翌年洋関の新設となった。これにより海関は新旧に区別され,旧関は内地関税のみに縮小され,新関である洋関が外国人管理のもとに解放前まで続いた (→粤海関 ) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「海関」の解説

海関
かいかん

清代に開港場に設けられた税関
唐〜明代の市舶司の伝統を受け,関税徴収のほか貿易・外国人の管理にあたった。清朝は1685年,粤 (えつ) (広東)・閩 (びん) (福建)・浙 (せつ) (浙江)・江 (こう) (江蘇)の4海関を設置した。1757年以後,広州(広東)1港のみが西欧諸国との貿易港と限定されたため,粤海関と広東十三行が繁栄した。開国後の1854年以来,江海関ではイギリス人・アメリカ人・フランス人がその事務に参加し,58年の天津条約では,中国のすべての開港場にこの外人税務司制度が適用された。イギリス人の総税務司の下に各港税務司が置かれて西洋式税関行政が能率的に運営され,税収は清朝末期の歳入の重要部門となり,対外賠償支払いや対外借款の担保にあてられた。中華民国以後,外人税務司は権限を縮小され,第二次世界大戦後廃止された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「海関」の解説

海関(かいかん)

清代,開港場に設けられた税関。1685年海禁解除とともに初めて4海関(上海,定海,厦門(アモイ)広州)が設置された。1757年外国貿易は広州1港に制限されたが,1842年5港が開港され,58年天津条約でさらに開港場が追加され,その管理に外人税務司制度が採用された。この新制度による海関を,旧制度の旧関あるいは常関に対して新関あるいは洋関と称する。

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世界大百科事典(旧版)内の海関の言及

【関所】より

…その代表的な例として東海道の箱根・新居(あらい)(今切),中山道の碓氷(横川)・木曾福島,日光(奥州)道中の栗橋,甲州道中の小仏以下の諸関があげられる。こうした陸上の関所に対比されるものに,江戸湾警備などを目的とする相模の三崎・走水,伊豆の下田(のち浦賀)などの各海関がある。また特殊なものとして,異国船警備のために福岡藩,佐賀藩などが交代で詰める長崎の西泊・戸町両番所のごときは,幕府の関所として明確に認識されていた。…

※「海関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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