海瑞(読み)かいずい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「海瑞」の意味・わかりやすい解説

海瑞
かいずい
(1514―1587)

中国、明(みん)代の官僚。海南島瓊山(けいざん)県の人。字(あざな)は汝賢(じょけん)、号は剛峯(ごうほう)、諡(おくりな)は忠介。1549年挙人となり、陸光祖の知遇を得て戸部主事となった。性は剛直をもって聞こえ、66年、嘉靖帝(かせいてい)の失政を直言して獄につながれた。帝を強く諫(いさ)めるにあたり、まず棺(ひつぎ)を買い、妻子に訣別(けつべつ)して罪を待った(「海瑞市棺(かいずいかんをかう)」)という故事はこのときのことである。隆慶帝の即位後、右僉都御史(うせんとぎょし)から応天巡撫(じゅんぶ)となり、一条鞭法(べんぽう)の実施のほか、土地丈量(じょうりょう)や水利工事の施行など民政の充実に意を注いだ。のち、張居正と衝突して官を退いたが、周忱(しゅうしん)、于謙(うけん)と並ぶ清官として民に慕われ、新中国になっても呉晗(ごがん)『海瑞罷官(ひかん)』などの歴史劇に取り扱われた。

[川勝 守]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「海瑞」の解説

海瑞(かいずい)
Hai Rui

1514~87

中国明代中期の政治家。広東省瓊山(けいざん)の人。清廉で公正な官僚である清官の代表的人物で,1566年,政治の退廃を論じて嘉靖(かせい)帝を諫(いさ)め,その怒りにふれて投獄された。また,妥協しない性格から張居正(ちょうきょせい)にも疎んじられたという。1961年,歴史家で北京市副市長であった呉晗(ごがん)は彼を主人公とする戯曲脚本を発表したが,当時毛沢東大躍進政策を批判して失脚していた彭徳懐(ほうとくかい)を擁護するものとの嫌疑がかけられた。そしてその事件は文化大革命へ発展することになった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海瑞」の意味・わかりやすい解説

海瑞
かいずい
Hai Rui; Hai Jui

[生]正徳9(1514)
[没]万暦15(1587)
中国,明代の政治家。瓊山 (けいざん。広東省海南島) の人。字は汝賢。号は剛峰。諡は忠介。嘉靖 28 (1549) 年の挙人。南平 (福建) 教諭,淳安 (浙江) 知県を経て戸部主事に推され,同 45年嘉靖帝に意見書を奉じてその怒りに触れ,下獄した。隆慶帝の即位後許されて応天 (南京) 巡撫となり,限田,均税を主張して一条鞭法を実施するなど,民政に尽して人民から慕われた。しかしその性格は剛直で権威に屈しなかったので,張居正内閣のときはうとんじられて在野十数年に及んだが,張の死後に南京右僉都御史に返り咲き,在官中 74歳で没した。

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改訂新版 世界大百科事典 「海瑞」の意味・わかりやすい解説

海瑞 (かいずい)
Hǎi Ruì
生没年:1514-87

中国,明代の官僚。号は剛峯。広東省海南島の人。清廉・剛直をもってきこえる。応天巡撫のとき,郷紳の不当な土地取上げに反対して罷免されたが,民衆の側に立っての名裁判は,その後,好んで芝居のテーマに取り上げられた。解放後,歴史学者呉晗(ごがん)の書いた《海瑞罷官(海瑞の免官)》が,海瑞にかりて毛沢東の政策を誹謗するものとして激しい批判を浴び,文化大革命への導火線となったことは有名である。
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