海北友松(読み)かいほうゆうしょう

精選版 日本国語大辞典 「海北友松」の意味・読み・例文・類語

かいほう‐ゆうしょう【海北友松】

安土桃山時代の画家。海北派の祖。本名紹益。近江の人。京都に出て狩野派および宋の梁楷(りょうかい)の画法を学ぶ。簡潔で力強い水墨画や、色彩効果のあざやかな金碧画などを描いた。代表作「三酸及寒山拾得図屏風」「山水図屏風」など。天文二~慶長二〇年(一五三三‐一六一五

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デジタル大辞泉 「海北友松」の意味・読み・例文・類語

かいほう‐ゆうしょう〔‐イウシヨウ〕【海北友松】

[1533~1615]安土桃山時代の画家。海北派の祖。近江おうみの人。初め狩野派を学び、梁楷りょうかいなどの宋元水墨画風に傾倒し、独自の気迫と情感に富む画風を完成させた。作品に建仁けんにん本坊方丈の「山水図」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「海北友松」の意味・わかりやすい解説

海北友松
かいほうゆうしょう
(1533―1615)

安土(あづち)桃山時代の画家。海北派の祖。浅井長政(ながまさ)麾下(きか)の重臣海北善右衛門綱親(ぜんえもんつなちか)の五男(あるいは三男)として、近江国(おうみのくに)坂田郡滋賀県米原(まいばら)市)に生まれる。名を紹益(しょうえき)、友松はその字(あざな)である。1573年(天正1)織田信長によって主家浅井家が滅ぼされ、武門の海北家も絶える。しかし、すでに早く京都・東福寺に出家していた友松一人はこの難を逃れ、41歳で還俗(げんぞく)、以後海北家再興を志し、画事のかたわら武芸にも励んだ。画(え)は初め狩野元信(かのうもとのぶ)あるいは永徳(えいとく)に師事したともいわれるが、いずれともにわかには決めがたく、おそらくは独力で自らの画境を切り開いていったのであろう。深く宋元画(そうげんが)を研究、ことに南宋(なんそう)の画院画家梁楷(りょうかい)に私淑し、減筆描法を学ぶ。その省略の要を得た友松独特の人物画は「袋人物」とよばれ賞賛された。そうした画人としての活動だけでなく、友松は和歌や連歌、茶の湯にも通じ、当代一流の文化人としての高い教養を備えていた。その一端は彼の幅広い交遊からもうかがえ、大徳寺の春屋宗園(しゅんおくそうえん)、東福寺の集雲守藤、連歌師里村紹巴(じょうは)と親交を結んだ。また明智光秀(あけちみつひで)の配下であった斎藤利三(としみつ)とはとりわけ親しく、のち82年山崎の合戦で光秀が敗れ、利三が秀吉側に捕らえられて処刑されたとき、友松はその遺体を奪い返し、真如堂に葬ったという。後年海北家は友松の子友雪(ゆうせつ)の代になって一時没落し、町絵師的生活を送るが、このとき海北家を引き立て再興させたのは、ほかならぬ利三の娘春日局(かすがのつぼね)であった。友松の恩義に報いたのであろう。

 友松は、他の近世初期の画人に比べ、幸運なことに遺作も多い。しかし、それらの多くは60歳代以後のもので、彼の画風形成期についてはいまだ不明の点も多い。そのなかで年記のある作品としては、1599年(慶長4)の建仁寺(けんにんじ)大方丈障壁画(しょうへきが)や、1602年(慶長7)の『飲中八仙図屏風(びょうぶ)』(京都国立博物館)および『山水図屏風』(東京国立博物館)がある。これ以後晩年には桂宮智仁(かつらのみやとしひと)親王の知遇も得、同家へしばしば出入りした。御物の『浜松図屏風』『網干(あぼし)図屏風』は桂宮家伝世の品である。これらの作品以外に、建仁寺禅居庵障壁画、『雲竜図屏風』(北野天満宮)、『牡丹(ぼたん)図屏風』(妙心寺)などがその代表作に数えられよう。いずれも気迫のこもった鋭い表現をみせ、武人画家友松のおもかげを彷彿(ほうふつ)とさせる。慶長(けいちょう)20年6月2日没。親友斎藤利三の墓もある真如堂に葬られた。

[榊原 悟]

『河合正朝著『日本美術絵画全集11 友松・等顔』(1981・集英社)』『大津市歴史博物館編・刊『近江の巨匠――海北友松』(1997)』


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改訂新版 世界大百科事典 「海北友松」の意味・わかりやすい解説

海北友松 (かいほうゆうしょう)
生没年:1533-1615(天文2-元和1)

桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江浅井家の重臣海北善右衛門尉綱親の子で幼時に出家し,東福寺で修禅。絵を狩野派に習った。1573年(天正1)織田信長の浅井長政攻略による海北家滅亡後は,武門再興を志して還俗。画事よりは弓馬の道を積極的に学んだらしい。豊臣秀吉の部将亀井茲矩は武道の師・画事の後援者であり,明智光秀の家老斎藤利三(?-1582),真如堂東陽坊長盛(1515-98)らは風流の友。里村紹巴は連歌の師で,五山の禅僧との交友も深かった。82年山崎合戦に敗れて磔刑にされた斎藤利三の屍を,東陽坊と謀って,夜陰に乗じ奪い,真如堂に葬った逸話がある。93年(文禄2)施薬院全宗の茶の湯で秀吉に画才を見いだされたころから,武門の志を捨て画事に専念したものと見られ,遺作もまた60歳前後から没年までのものが多い。しかし,幅広い教養人として,終生芸事を一段低く見る武門の気概を失わなかったため,作品には,武人的な鋭い覇気がうかがえる。99年(慶長4)再建の建仁寺方丈に描く《琴棋書画図》《花鳥図》《竹林七賢図》などのほか,霊洞院の《花鳥図》,禅居庵の《松竹梅図》などの襖絵は,狩野派に学んだ巨大樹木など桃山的な様式と同時に,梁楷様(りようかいよう)の〈袋人物〉の造成や,牧谿様(もつけいよう)の叭々鳥(ははちよう)に潑墨風の松を組み合わせるなど,独自の画技を展開し,象徴的で直截な自己主張を表している。また《飲中八仙図》屛風(京都国立博物館),《山水図》屛風(東京国立博物館),《楼閣山水図》屛風(MOA美術館)などは,玉風の潑墨もまじえ,真行草の三体を会得したことを示す。宋元画に対する研鑽が深く,散聖・列仙・禅宗祖師等を描く水墨画も多い。晩年には妙心寺の《琴棋書画図》《花卉図》《三酸・寒山拾得図》など金地着色屛風の作例も残す。また,宮中や公家に出入りし,桂宮家の《浜松図》屛風(宮内庁)なども作した。友松の子友雪(1598-1677)は絵屋的な素養を合わせてやまと絵の題材や風俗画にも活路を見いだし,《祇園祭礼図》屛風(八幡山保存会)などを描くほか,狩野派と共に禁裏の宮殿障壁画制作に参加するなど,画技の幅を広げた。その後の海北派は開祖の個性が強すぎて評価は低いが,和漢融合した独特の画風で民間を生きのび,江戸時代を通じて命脈を保った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海北友松」の意味・わかりやすい解説

海北友松
かいほうゆうしょう

[生]天文2(1533).江州,坂田
[没]慶長20(1615).6.2. 京都
桃山時代の画家。海北派の祖。浅井家重臣,海北善右衛門尉綱親の5男あるいは3男。名は紹益。幼時より喝食として東福寺に預けられていたため,浅井家滅亡時一族と運命をともにしなかったと伝えられるが,前半生の経歴には不明な点が多い。やがて還俗して武道に励み,海北家再興を志したが,一方で狩野派やその源流である宋元絵画を学んで,本格的な作画活動に入った。石田三成,亀井茲矩,斎藤利三らの武将のほか,集雲守藤らの五山僧や八条宮智仁親王をはじめとする公家衆とも親交を結んで絵の注文を受け,その画名は遠く朝鮮にまで及んだ。狩野派を学びながら,のちに独自の筆法,用墨,構成法を獲得,武人らしい鋭い気迫と斬新な趣向に満ちた新しい画境を開いて一家をなした。また,宋の梁楷に私淑して減筆体の飄逸な人物描写を創始し,『三酸寒山拾得図屏風』 (妙心寺) ,『竹林七賢図』襖絵 (現掛幅装 16幅,建仁寺本坊) など多数の優品を残し,同時代の他派の画人にも大きな影響を与えた。制作年代の明確な作品は,慶長4 (1599) 年の建仁寺本坊大方丈障壁画,同7年の『飲中八仙図屏風』 (京都国立博物館) ,『山水図屏風』 (東京国立博物館) などわずかであるが,遺品の数は多く,建仁寺塔頭の障壁画のほか,『網干図屏風』 (宮内庁三の丸尚蔵館) ,『浜松図屏風』 (同) のようなやまと絵の題材を扱ったもの,妙心寺の『琴棋書画図屏風』,『梅・牡丹図屏風』のような金碧濃彩画,水墨の『雲竜図屏風』 (北野天満宮) ,『四季山水図屏風』 (MOA美術館) など,多種多様な内容をもつ。

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朝日日本歴史人物事典 「海北友松」の解説

海北友松

没年:元和1.6.2(1615.6.27)
生年:天文2(1533)
桃山時代の画家。名は紹益。浅井氏の重臣海北善右衛門尉綱親の5男(一説に3男)として近江国(滋賀県)坂田郡に生まれる。幼時より東福寺に禅修行に出されていたため,天正1(1573)年織田信長の浅井攻めで父や兄が主家と共に討死した際にも難を逃れたと伝えられる(『海北家由緒記』,「海北友松夫妻像」賛)。修禅のかたわら絵を狩野元信に学び,また中国・宋の画家梁楷に倣った画をもよくしたが,芸家として世に処するのを恥じて,一族が滅んだ40歳を過ぎてから還俗。武術の鍛練に励み,海北家の再興を目指したが,武士として身を立てることはできず,豊臣秀吉や後陽成天皇ら宮中の用命をも受ける画家として後半生を生きた。 今日知られる友松作品では早い時期に属する建仁寺の水墨障壁画群(1599年の本坊方丈襖絵や同塔頭大中院・霊洞院・禅居庵のもの)には,全作品中最も鋭い気迫がみなぎり,武士を志した画家の気概が感じられる。慶長7(1602)年ごろから八条宮智仁親王邸に出入りし,やがて後陽成天皇など宮中の御用をも勤めることとなった。その時期のやまと絵学習が,「浜松図屏風」(宮内庁蔵)や「花卉図屏風」(妙心寺蔵)のような機知的で意匠性に富む金碧作品の制作につながった。また最晩年の軽妙なタッチの水墨の押絵は宮中や禅僧の間で好評を博した。画竜にたけたほか,風をはらんだ袋のような衣をつけた略筆体人物画(袋絵,袋人物)を得意とした。天正10(1582)年山崎の戦で敗れて処刑された友人の斎藤利三の妻子の面倒をみ,その遺児がのちに徳川家光の乳母春日局となった話も人口に膾炙している。<参考文献>武田恒夫・河合正朝『建仁寺』,河合正朝「友松/等顔」(『日本美術絵画全集』11巻),武田恒夫『海北友松』

(川本桂子)

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百科事典マイペディア 「海北友松」の意味・わかりやすい解説

海北友松【かいほうゆうしょう】

桃山時代の画家。近江(おうみ)の人。名は紹益。武門に生れ,浅井家とともに滅亡した海北家の再興を志したが果たさず,画才により名をあげた。画技は狩野元信狩野永徳に学んだとされるが,梁楷玉澗なども研究,永徳の気宇の大きさと宋元画の精神性を止揚した独特の画境を開拓した。放胆な筆致による水墨画を本領としたが,金地着色画もある。その子友雪〔1598-1677〕,門人増田友柏らが友松の画風を継ぎ,海北派を形成した。
→関連項目寒山拾得妙心寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「海北友松」の解説

海北友松
かいほうゆうしょう

1533~1615.6.2

桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江国浅井家家臣海北善右衛門綱親の子。同国坂田郡生れ。幼時から京都東福寺に入り修禅。40歳代で還俗し,海北家再興を志したが,文禄年間頃から画家として活動を始める。狩野派に学ぶ一方で宋元水墨画も体得し,武人的な気迫があふれる独自の画風をうみだす。晩年は宮中の御用も勤め,画家として名声を得た。1599年(慶長4)再建の建仁寺方丈の襖絵「花鳥図」(重文)や,「飲中八仙図屏風」(京都国立博物館蔵,重文)などの水墨画のほか,「花卉(かき)図屏風」(妙心寺蔵,重文)や「浜松図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)などの金屏風も描いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「海北友松」の解説

海北友松 かいほう-ゆうしょう

1533-1615 織豊-江戸時代前期の画家。
天文(てんぶん)2年生まれ。海北綱親の子。京都東福寺で出家したが,主家浅井家滅亡ののち,41歳で還俗(げんぞく)。武門海北家の再興をはかるがはたせず,狩野元信(一説には狩野永徳)に師事,画家の道をあゆむ。南宋(なんそう)(中国)の画家梁楷(りょう-かい)らの影響をうけ,おおくの障屏画を制作。慶長20年6月2日死去。83歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は紹益。作品に「飲中八仙図屏風(びょうぶ)」「山水図屏風」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「海北友松」の解説

海北友松
かいほうゆうしょう

1533〜1615
安土桃山〜江戸時代初期の画家。海北派の始祖
近江(滋賀県)の戦国大名浅井長政の重臣の子。狩野派を学び宋元風の水墨画を研究。画風は力強く個性的で,特に人物画をよくした。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの好遇をうけた。代表作に京都建仁寺『水墨襖絵』,妙心寺『金地彩色屛風』など。

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世界大百科事典(旧版)内の海北友松の言及

【安土桃山時代美術】より

…それはまたこの時代の障壁画に共通する傾向でもあった。 長谷川等伯,狩野光信のほか狩野山楽,海北友松らの活躍も加わって,慶長年間(1596‐1615)の障壁画制作は多彩をきわめた。なかでも山楽の大覚寺襖絵,友松の建仁寺襖絵などは永徳の豪放な画風がこれらの画家に引きつがれてさらに新しい発展をとげたことを示している。…

【減筆】より

…いわゆる逸格の画家たちの人物画は衣紋を粗筆,面貌を細筆でえがかれているが,この画風が,梁楷まで伝えられ,洗練度を加えたと考えられる。日本の海北友松のいわゆる袋人物(ふくろじんぶつ)なども減筆体の一バリエーションである。【戸田 禎佑】。…

※「海北友松」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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