浦郷村(読み)うらのごうむら

日本歴史地名大系 「浦郷村」の解説

浦郷村
うらのごうむら

[現在地名]横須賀市浦郷うらごう町一―五丁目・追浜おつぱま町一―三丁目・追浜東おつぱまひがし町一―三丁目・追浜南おつぱまみなみ町一―三丁目・追浜本おつぱまほん町一―二丁目・夏島なつしま町・湘南鷹取しようなんたかとり一―六丁目・鷹取たかとり町一―二丁目・浜見台はまみだい一―二丁目・船越ふなこし町八丁目

三浦半島の東北端に位置し、武蔵国と国境を接する。武蔵側の六浦むつら野島のじま(現横浜市金沢区)とともに深い入江に恵まれ、良好な港湾地帯をなす。

文保三年(一三一九)頃と推定される金沢貞顕書状断簡(県史二)に「人夫事、伊勢入道方へ、浦郷のを令所望候之処、領状候了」とみえる。永正一三年(一五一六)六月一三日の相河半吾証文(県史三)に「浦之郷へ参りて自得寺さま頼申候へ共、かつてんなく候、榎戸能永寺へ参りて」とある。榎戸えのきど近世には村内の小字であり、かつ田浦たうら村・長浦ながうら村とともに一帯良港でもあったが、文明一八年(一四八六)当地域を回った聖護しようご(現京都市左京区)の義演道興が「廻国雑記」に「浦川のみなとといへる所にいたる、こゝは昔頼朝卿の鎌倉にすませ給ふとき、金沢、榎戸、浦河とて三の湊なりけるとかや」と記しているように、中世から湊として知られていた。永正一三年以後は小田原北条氏の支配下にあり、天文年間(一五三二―五五)にはすでに紺屋役を徴収されていたと考えられ、天正一三年(一五八五)と思われる一〇月二三日の北条家朱印状写(県史三)によれば、不入と号して無沙汰の「三浦浦之郷」の紺屋役徴収を京紺屋津田屋に命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報