浜谷浩(読み)はまやひろし

改訂新版 世界大百科事典 「浜谷浩」の意味・わかりやすい解説

浜谷浩 (はまやひろし)
生没年:1915-99(大正4-平成11)

日本の代表的なドキュメンタリー写真家。東京に生まれ,1933年(昭和8)にオリエンタル写真工業に入社して,写真撮影と暗室作業の技術を習得する。37年,次兄田中雅夫とともに〈銀工房〉を設立し,銀座,浅草などを小型カメラで取材した写真を発表した。39年〈アチック・ミューゼアム〉を主宰する民俗学研究家,渋沢敬三と出会い,その実証的な記録精神に強く影響されて,新潟県谷浜村下桑取谷(しもくわどりだに)の民俗行事を記録しはじめる。その成果はのちに写真集《雪国》(1956)にまとめられ,詩情と記録精神が結びついた,優れたドキュメンタリー写真となっている。戦後は〈マグナム〉の会員として国際的に活躍するほか,日本の風土と人々の生活との関わりあいを,さまざまな角度から考察した《裏日本》(1957),《日本列島》(1964)等の写真集を刊行した。81年には,50年にわたる写真活動の集大成として,《浜谷浩写真集成 地の貌・天の貌》が出版された。
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百科事典マイペディア 「浜谷浩」の意味・わかりやすい解説

浜谷浩【はまやひろし】

写真家。東京生れ。関東商業卒業後,航空撮影に従事。1933年オリエンタル写真工業に入社。1937年退社後,フリーの写真家として活動する。1940年,木村伊兵衛の招きで東方社写真部入社,主に対外宣伝誌《FRONT》のために陸海軍関係の撮影に従事する。戦後も1956年まで疎開先であった新潟県高田にとどまって撮影。戦後日本を独自の視点で見直そうとした。1954年より日本海側の各地を数十回にわたって旅し,写真集《裏日本》(1957年)としてまとめ,代表作となる。以降も,日本の風土をジャーナリスティック視線で記録する手法は一貫して作品の核となり,その成果は写真集《日本列島》(1964年)をはじめとする多くの写真集と雑誌に発表された。1955年には,ニューヨーク近代美術館で開催された《ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)》展に出品。1960年,マグナム・フォトスに寄稿写真家として契約。1960年代以降は,国内のみならず海外での撮影も多く,内外で旺盛に活動した。毎日出版文化賞(1958年)ほか写真賞受賞多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浜谷浩」の解説

浜谷浩 はまや-ひろし

1915-1999 昭和-平成時代の写真家。
大正4年3月28日生まれ。オリエンタル写真工業にはいり,渡辺義雄にまなぶ。昭和12年独立。新潟県の豪雪地の取材をつづけ,31年写真集「雪国」を刊行。同年雑誌連載の「裏日本」で毎日写真賞。ほかに「日本列島」「学芸諸家」などがある。61年ICP巨匠賞,62年ハッセルブラッド賞をうけた。平成11年3月6日死去。83歳。東京出身。関東商業卒。

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世界大百科事典(旧版)内の浜谷浩の言及

【縁起物】より

…それが縁起物である。多くは神社や寺院から授けられ,正月初詣に授与される破魔矢(はまや)は,悪魔をはらい幸運を射止めるものであり,起上り小法師達磨は,七転八起の故事から出世を約束される縁起物である。また正月2日の夜,社寺から授与された宝船の図を枕の下に入れて寝ると吉夢を見て,幸運を招来するという。…

※「浜谷浩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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