浅野村(読み)あさのむら

日本歴史地名大系 「浅野村」の解説

浅野村
あさのむら

[現在地名]豊野町大字浅野

現豊野町の東南部。東は千曲川中流をもって押切おしきり村(現上高井郡小布施おぶせ町)、南は小布施村大島おおしま(現上高井郡小布施町)、西南は赤沼あかぬま(現長野市)、西は神代かじろ村、北は大倉おおくら村、東北隅は蟹沢かにさわ村と接する。村の北西は丘陵性の山地、鳥居とりい川が北から東南に流下し、東折して蟹沢村に入り、あさ川が西から東へ流れて千曲川に注ぎ、東南に緩傾斜して平地が開ける。飯山道(谷筋道)が村の中央部を西から東へ通じ、鳥居川にかかる土橋どばし(現鳥居橋と飯山線鉄橋との中間、現在はない)の中央で蟹沢村境となる。谷筋道と重複して橋を渡った北国東街道は、古町ふるまち地籍で谷筋道から分れ、南の方、浅野の渡しに通じていた。集落は谷筋道に沿って形成された。

嘉暦二年(一三二七)八月二三日付幕府下知状(三浦和田文書)に、島津大隅弥三郎称阿(頼祐)重代の所領として「信濃国太田庄下浅野郷」とみえるのが初見。謡曲「柏崎」に、越後の国府から善光寺への道筋として、

<資料は省略されています>

とうたわれ、中世を通じてのちの谷筋道にあたる道が通じており、浅野はその沿道の要地であった。天正一〇年(一五八二)北信濃地方を掌握した上杉景勝は、同年七月島津忠直を長沼ながぬま(現長野市)城主に任命するとともに、六ヵ所の料所をこれに預けているが、そのなかに「百俵 浅野郷内堀分」がみえる。

浅野村
あさのむら

[現在地名]香川町浅野

香東こうとう川東岸、川東下かわひがししも村の北にあり、古くから開かれていた平野部と未開発の山間部の接点に位置した。寛永国絵図に村名がみえ、大野おおの郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では五二四石余。天保九年(一八三八)御領分明細記は七九二石余。元文五年(一七四〇)の人数は八八七人(「郡別村々人数留」金倉寺文書)池泉合符録によれば(水掛高一千三九五石余)ほか二〇池があった。当村の水掛りはわたり池や川内原かわないはらしん池など。平池は東半分が百相もまい(現高松市)に属した。築造は久安年中(一一四五―五一)とも治承二年(一一七八)とも伝える。

浅野村
あさのむら

[現在地名]土岐市肥田町浅野ひだちようあさの肥田浅野梅ノ木町ひだあさのうめのきちよう肥田浅野朝日町ひだあさのあさひまち肥田浅野矢落町ひだあさのやおちちよう肥田浅野双葉町ひだあさのふたばちよう肥田浅野笠神町ひだあさのかさがみちよう肥田浅野元町ひだあさのもとまち

土岐川に南からその支流肥田川が合流して西流する南岸一帯にある。南は肥田ひだ村、北は土岐川を挟んで河合かわい村。土岐光衡の子次郎判官代光行は浅野判官と号したから(尊卑分脈)、当地に館があったと考えられる。「土岐累代記」には光行のとき神戸ごうど(現瑞浪市)から浅野の里に館を構え移ったと記す。光行は鎌倉幕府御家人でありまた後鳥羽院の西面の武士で、承久の乱では朝廷方について大井戸おおいど(現可児市)で鎌倉幕府軍と戦っている(「吾妻鏡」承久三年六月三日条)

浅野村
あざのむら

[現在地名]養父町浅野

十二所じゆうにしよ村の南、大屋おおや川の流域に位置し、村の東辺を流れる建屋たきのや川は当地で大屋川に注ぐ。山嶺を境に南は大坪おおつぼ村。建屋道は当地で大屋道から分岐し、同じく当地で建屋道から稲津いなづ村・はた村方面に向かう道が分れた。近世の領主の変遷は養父市場やぶいちば村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では高七五石余。出石封内明細帳によると拝領高七五石余・改出高五四石余、これらの内訳は屋敷四石余・麻畑三石余・田方七六石余・畑方四六石余、ほかに古新発高九斗余、家数三二・人数一五三。同明細帳には「毎年十月霜月之内五七日程牛市有之」とみえ、牛市が年間三五日ほど開かれていたようであるが、ほかに史料が残されていないので詳細は不明。

浅野村
あさのむら

[現在地名]金沢市浅野本町あさのほんまち・浅野本町一―二丁目・京町きようまち昌永町しようえいまち元町もとまち二丁目

金沢平野北部、浅野川中流右岸に位置する。正保郷帳によれば高八六八石余、田方五四町余・畑方三町八反余、新田高五七石余(免五ツ六歩一厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九一一石、免七ツ二歩、小物成は山役四一四匁・蝋役四匁(三箇国高物成帳)。安政二年(一八五五)の高九二三石余、家数二二九(うち頭振一八)・人数一千二四三(「高免家数人数等書上」亀田文書)

浅野村
あざのむら

[現在地名]河東町浅山あさやま

北東は中林なかばやし新田村、北は北山きたやま新田村。応永一八年(一四一一)一〇月一一日の沙弥某寄進状(新編会津風土記)に「寄進 河沼郡藤蔵村内浅野権現堂」とあり、他の二村とともに融通ゆつう(現会津若松市)に寄進されている。中世の藤倉ふじくら村は浅野村まで包括していたものと考えられる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三九一石余。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」に端村牛房屋敷ごぼうやしき(午蒡屋敷)と記されるが、その後廃止され場所も定かでない。

浅野村
あさのむら

[現在地名]市川町浅野

西小畑にしおばた村の西、市川左岸に位置し、神東じんとう郡に属した。市川に沿って生野いくの街道が縦断する。中世には川述かわのべ郷に含まれた。天正七年(一五七九)九月の大宮天神社神事次第(内藤文書)に浅野とみえ、大宮天神社(現小畑の天満神社)の神事で、獅子舞を担当することとなっている。慶長国絵図に村名がみえ、当村の南にも「あその」とみえる。正保郷帳では田方七四石余・畑方一八石余、「旱損所・かや山有」と注記される。

浅野村
あさのむら

[現在地名]阿南町富草とみくさ 浅野

門原もんばら川左岸に位置する。北は粟野あわの村・梅田うめだ村、東は鴨目かもめ村、南は門原村に接し、西は鷲巣じゆす村に接する。

天正一六年(一五八八)毛利領、文禄二年(一五九三)京極領、慶長五年(一六〇〇)小笠原領、同一七年脇坂領、天和元年(一六八一)より美濃高須藩松平氏の飛領地となり、明治に至る(長野県町村誌)

浅野村
あさのむら

[現在地名]一宮市浅野

馬見塚まみづか村の東に位置し、浅野庄の本所に比定される。村高一千一四二石余はすべて三九人の藩士の入会給知、田三五町九反余・畑七九町八反とほかに見取新田・野方・松山分一町八反余がある。「寛文覚書」の戸口は家数一五九、人数九九二、特産として孟宗竹があり「浅野むらのあたりに多くうゑて、冬春筍を出す、名産なり」(尾張志)とある。「徇行記」には「般若川ノ西ニアリ六組ニ分ル、下浅野・中浅野・水桑・野口・西浅野・大西ト云、此内ニテ西浅野村立ヨシ、中浅野ハ村立アシク、其余大体村立ヨキ所ナリ、六区共ニ竹木ヨク茂レリ、高ニ準シテ戸口多ク佃力足レリ、其内馬見塚ヘ越高二百石ホトアリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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