浄念寺(読み)じようねんじ

日本歴史地名大系 「浄念寺」の解説

浄念寺
じようねんじ

[現在地名]村上市寺町

しお町から南東に下った十字路の北西角にある。快楽山と号し、浄土宗本尊阿弥陀如来。明応(一四九二―一五〇一)頃浄念と名乗る旅僧が庵を結んだのが創始と伝える。元禄七年(一六九四)没の珂硯を中興の祖とする。正保(一六四四―四八)頃は西岸寺、寛文(一六六一―七三)頃は森岸寺とよばれ、本多氏・榊原氏の菩提寺であった(「浄念寺由来書」当寺蔵)。元禄二年奥の細道行脚の途中村上に立寄った芭蕉は、七月一日の朝「泰叟院」へ参詣しており(曾良旅日記)、この泰叟たいそう院は当寺のこととされる。享保三年(一七一八)の村上町明細帳(鈴木三氏蔵)には「浄念寺」とみえる。

浄念寺
じようねんじ

[現在地名]宇部市大字棚井

棚井中の宝福たないなかのほうふくにある。厚東ことう川右岸段丘の端に立地。浄土真宗本願寺派で寿光山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば開基は釈勝願。俗姓は吉見将監で大内氏の家臣。出家後本願寺蓮如に帰依し、帰国後琳聖太子の古跡と伝える禅宗寺院浄土真宗に改め、文明一四年(一四八二)棚井村片山かたやまに創建したのに始まる。その後の変遷は不詳であるが、安永七年(一七七八)火災のため全焼し、寛政元年(一七八九)に再建したという。天保一四年(一八四三)の書出によれば、「厚狭郡須恵村蓮光寺、同吉見村正覚寺、同藤曲村善福寺、同目出村報恩寺、防州吉敷郡白松村願船寺、厚狭郡山ノ井光円寺、同山ノ井永福寺、豊浦郡内日村浄福寺、同郡川棚村安楽寺、同郡川棚村西方寺、同郡同所正息寺、同郡石原村光明寺、同郡庄屋村常泉寺、同郡北村専念寺、肥後隈本永福寺」と一五の末寺を抱えていた。

浄念寺
じようねんじ

[現在地名]堺市柳之町東二丁

土居どい川の西辺、北十萬きたじゆうまん南方に位置する。浄土宗、山号慈門山、本尊阿弥陀如来。文明四年(一四七二)善誉浄念の開創。境内に江戸時代の堺の鉄砲鍛冶師榎並屋勘左衛門の墓碑がある。榎並家は徳川家康岡崎おかざき(現愛知県岡崎市)在住時代より重用され、元禄期(一六八八―一七〇四)には芝辻理右衛門・同長左衛門とともに鉄砲年寄役の任を勤めた(堺市史)

浄念寺
じようねんじ

[現在地名]枚方市三矢町

浄土真宗本願寺派、山号松風山、本尊阿弥陀如来。寺伝では、本願寺八世蓮如の河内地方巡化に同行した岩見入道浄念が明応四年(一四九五)に開創し、もとは現在地の北東の淀川筋にあったという。現在地への移建は宝暦一三年(一七六三)の火災による。天文四年(一五三五)より本願寺兼帯所となり、御門跡御坊と称され、「河内名所図会」にも「西本願寺御坊 枚方の町にあり、浄念寺といふ、寂如上人の時、自庵御坊となる、本尊阿弥陀仏、安阿弥の作」とみえる。

浄念寺
じようねんじ

[現在地名]岩国市今津町五丁目

今津いまづ砂原すなはらにあり、浄土真宗本願寺派。桃花山と号した。本尊阿弥陀如来。

玖珂郡志」によれば、当寺はもと安芸吉浦よしうら(現広島県呉市)にあり、吉川氏船手衆の宗門寺であったが、慶長移封の際、その門徒の船手衆とともに当地に移ったという。本尊の阿弥陀は元来神代こうじろ(現玖珂郡大畠町)の光明寺の本尊で、聖徳太子の作と伝え、海上守護の仏であるという。

浄念寺
じようねんじ

[現在地名]深浦町深浦 岡町

日本海を眼下に眺望する小高い所に位置し、宝泉ほうせん寺の隣にある。松林山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来像。文化一五年(一八一八)の奥州津軽惣法中草創寺別帳(市立弘前図書館蔵)によれば、創立は天文一一年(一五四二)で草創が祐心。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「浄念寺」の解説

浄念寺

新潟県村上市にある浄土宗の寺院。山号は快楽山。明応年間、浄念という名の僧が庵を結んだのが起源とされる。本堂は国指定重要文化財。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android