津軽為信(読み)つがるためのぶ

改訂新版 世界大百科事典 「津軽為信」の意味・わかりやすい解説

津軽為信 (つがるためのぶ)
生没年:1550-1607(天文19-慶長12)

江戸初期の大名。初代弘前藩主。実父は武田重信,後に大浦為則の養子となって大浦氏を継ぐ。初め南部を称する。幼名扇。1600年(慶長5)従五位下右京大夫。1571年(元亀2)石川城の南部高信を攻略したのを手始めとして,津軽郡内に勢力を扶植していた南部氏とその被官および北畠氏を次々と攻め滅ぼし,この統一戦争の過程で郡内の在地土豪層を被官化していった(《津軽一統志》)。1591年(天正19)豊臣政権奥羽仕置一環として,為信を蔵入地代官に任命し,3万石の領知高を与えた(秋田家文書)。関ヶ原の戦では徳川方として赤坂本陣に参陣し,戦後上野国大館に2000石を加増された。また1603年には,弘前の城下町建設を命じるなど,藩体制の成立に精力を傾けた。
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朝日日本歴史人物事典 「津軽為信」の解説

津軽為信

没年:慶長12.12.5(1608.1.22)
生年:天文19.1.1(1550.1.18)
戦国末・近世初頭の武将。堀越城主(青森県弘前市)武田守信の子。右京大夫。南部の一族大浦氏が光信のとき大浦城(青森県岩木町)を築き津軽中央進出の足がかりとした。為信は18歳のとき,この伯父大浦城主為則の養子となって就封という。南部氏は郡代を置いて津軽を統治,その郡代補佐であった為信が天正16(1588)年までに南部氏内紛に乗じて津軽を統一。18年小田原に参陣し,豊臣秀吉より津軽領有の承認を得て南部氏より独立。九戸政実討伐にも参陣。朝鮮出兵のため肥前名護屋にいた秀吉のもとへ軍勢を派遣。文禄2(1593)年上洛し,正式に津軽4万石の安堵状を得,また近衛家からも牡丹の家紋と藤原姓を名乗ることを許可された。3年大浦城より堀越城へ移る。慶長5(1600)年関ケ原の戦の功により上州大館に2000石を加増,総高4万7000石となる。12年病気で京都滞留中の長男信建を見舞おうとしたが到着前に信建は死去。自らも京都で死没。弘前市華秀寺に葬る。

(伊藤清郎)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「津軽為信」の意味・わかりやすい解説

津軽為信
つがるためのぶ
(1550―1607)

戦国時代の武将。弘前(ひろさき)藩(津軽藩)祖。津軽堀越(ほりこし)(弘前市)城主武田守信(もりのぶ)の長子に生まれ、18歳のとき伯父の大浦(おおうら)城主大浦為則(ためのり)の婿となり、大浦氏を称す。21歳のとき石川城を攻めて、南部氏傘下からの自立を宣し、続いて千徳(せんとく)、滝本(たきもと)、北畠(きたばたけ)、堤(つつみ)各氏らを屈服させて、津軽地方を統一。1589年(天正17)豊臣(とよとみ)秀吉から津軽三郡、合浦(がっぽ)支配を保証され、津軽右京亮(うきょうのすけ)を名のる。奥州仕置の結果、4万5000石を認可。近衛(このえ)家から牡丹丸(ぼたんまる)の紋章を受けて家紋とする。1594年(文禄3)堀越城に居城を移し、1603年(慶長8)高岡(たかおか)(弘前)築城に着手。藩政の基礎を固めたが、上洛(じょうらく)中に長子信建(のぶたけ)の後を追うように病死した。

[遠藤 巌]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「津軽為信」の解説

津軽為信 つがる-ためのぶ

1550-1608* 織豊-江戸時代前期の大名。
天文(てんぶん)19年1月1日生まれ。大浦氏をつぎ,約17年かけて陸奥(むつ)津軽地方を統一,津軽氏を名のる。関ケ原の戦いで東軍につき,陸奥高岡(のちの弘前(ひろさき))藩(青森県)藩主津軽家初代となる。4万7000石。高岡城の築城に着手するなど,発展の足がかりをきずいた。慶長12年12月5日死去。58歳。
【格言など】戦は兵の多少に寄らず,唯その主将の方略如何(いかん)にあるのみ(「津軽一統志」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津軽為信」の意味・わかりやすい解説

津軽為信
つがるためのぶ

[生]天文19(1550).出羽
[没]慶長12(1607).12.7. 京都
安土桃山時代の武将。弘前藩祖。守信の子。幼名は扇。通称,右京,右京大夫。初め南部氏に属したが,南部氏が衰退すると分離して津軽地方を平定,津軽氏の基礎を築いた。のち豊臣秀吉に従って小田原征伐に加わり,4万 5000石を安堵された。関ヶ原の戦いには徳川方に属し,堀越4万 7000石となった。

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367日誕生日大事典 「津軽為信」の解説

津軽為信 (つがるためのぶ)

生年月日:1550年1月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1608年没

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世界大百科事典(旧版)内の津軽為信の言及

【津軽氏】より

…津軽文書に金沢家光・家信の右京亮口宣案が残されていて実在が確認されているので,《津軽一統志》所載の系譜がより信頼がおけるであろう。初代弘前藩津軽為信は,1590年(天正18)末までは南部右京亮を称していたのは確実であり,91年6月ごろから津軽を称した(伊達家文書)。《津軽一統志》に津軽と南部両家は一体とあるので,本来津軽氏は源氏である。…

【弘前藩】より

…中世,津軽地域に勢力を扶植した南部氏と北畠氏を,南部(津軽)為信が駆逐して津軽統一を成し遂げた(《津軽一統志》)。豊臣政権は1590年(天正18)の奥羽仕置の一環として,91年津軽に太閤蔵入地1万5000石を設定し,津軽為信に領知高3万石を安堵した(組屋文書,秋田家文書)。藩体制の成立過程で家中騒動が続発し,なかでも為信のあとの相続をめぐる大熊騒動は幕府に裁定がもちこまれた。…

【陸奥国】より

…翌年,秀吉の新政を不満とする葛西・大崎一揆および九戸政実の乱を鎮めた秀吉は,奥羽最大の大名伊達政宗の転封を行うなど再仕置を実施し,豊臣政権下の奥羽の支配体制が定まった。まず,このときに定まった大名配置をみると,最北の津軽郡は南部氏の支配から独立した津軽為信に与え,三戸の南部氏には糠部,鹿角,岩手,閉伊,志和,稗貫,和賀の7郡を与えた。出羽国米沢から陸奥国岩出山に移封となった伊達政宗には,胆沢,江刺,気仙,磐井,本吉,登米,牡鹿,桃生,栗原,玉造,加美,志田,遠田,黒川,宮城,名取,柴田,亘理,伊具,宇多の20郡を与えた。…

※「津軽為信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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