法顕(読み)ほっけん

精選版 日本国語大辞典 「法顕」の意味・読み・例文・類語

ほっけん【法顕】

中国、東晉の僧。名は龔(きょう)。平陽府武陽(山西省襄垣県)の人。隆安年間(三九七‐四〇一)六〇歳のころ律蔵を完全なものにしようとインドへの旅にのぼり、およそ一五年後に帰国した。その著「仏国記」(法顕伝)は貴重な歴史資料。翻訳仏典として共訳の「摩訶僧祇律」四〇巻や「大般泥洹経」六巻がある。生没年未詳。

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デジタル大辞泉 「法顕」の意味・読み・例文・類語

ほっけん【法顕】

中国、東晋時代の僧。平陽(山西省)の人。399年、60余歳で仏典を求めて陸路インドに行き、14年後に海路帰国。その紀行「仏国記」は、当時のインド・中央アジアの状況を伝える重要資料。摩訶僧祇律や大般泥洹経だいはつないおんぎょうなどを漢訳。生没年未詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法顕」の意味・わかりやすい解説

法顕
ほっけん

正確な生没年は不明であるが、4世紀なかばごろに生まれ、420年前後まで活躍した中国の仏僧。天竺(てんじく)(インド)求法(ぐほう)僧、訳経僧として著名である。俗姓は龔(きょう)氏。平陽府武陽(山西省襄垣(じょうがい)県)に生まれ、幼くして出家した。当時の中国にはまだ戒律の文献(律蔵)が完備していなかったので、それを求めてインドに旅立った。399年(東晋(とうしん)の隆安3)同学の慧景(えけい)(?―403)らと長安を出発し、敦煌(とんこう)を経て流沙(りゅうさ)を渡り、鄯善(ぜんぜん)、于闐(うてん)を通り、パミールを越えて北インドに入った。インドでは各地仏跡を巡拝し、仏僧の生活や戒律の文献について見聞を広めた。『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』という大衆部の律蔵をはじめ、貴重な仏典を入手できた。パータリプトラパトナ)には3年、コルカタカルカッタ)に近い港町のタームラリプティには2年滞在し、仏典の収集に努めた。タームラリプティから商船で師子国(スリランカ)に渡り、ここに2年間とどまり、『五分律(ごぶんりつ)』などを入手した。老骨にむち打ってここまでやってきた法顕も、ときとして望郷の涙を流すこともあった(『徒然草(つれづれぐさ)』に人間法顕が話題にされている)。帰国の途中、耶婆提(やばだい)国(ジャワ島)に立ち寄り、そこから広州に向かったが暴風に流され、青州牢山(山東省)に漂着した。これが412年(義煕8)とされる。前後14年にわたって27か国を歴訪するという途方もない旅であった。その後、東晋の都の建業に行き、ここで旅行記をまとめた。『仏国記』ともいい、『法顕伝』ともいう。また請来(しょうらい)した仏典を翻訳紹介し、それらは6部63巻に上った。荊州(けいしゅう)(湖北省)の辛寺(しんじ)で入寂したが、86歳(82歳とも)であったという。

[岡部和雄 2017年4月18日]

『長沢和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』(平凡社・東洋文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「法顕」の意味・わかりやすい解説

法顕 (ほっけん)
Fǎ xiǎn
生没年:337?-422?

中国,東晋時代の求法(ぐほう)訳経僧。姓は龔(きよう)。平陽郡武陽(山西省襄垣県)の人。わずか3歳で沙弥となり,20歳のとき大戒をうけた。そのころ中国に律蔵が完備していないのをなげき,399年(隆安3)に60余歳の老齢の身で,同学の僧らと長安を出発して,陸路インドへ向かった。敦煌から西域に入り,ヒマラヤを越えて北インドに至り,インド各地やスリランカで仏典を求め仏跡を巡礼する旅をつづけた。30余国を遍歴したのち,戒律などのサンスクリット経典をもって,海路帰国の途についたが,暴風雨に遭い,412年(義煕8)に青州長広郡(山東省)にひとり無事に帰着した。この14年間にわたる旅行中の見聞を著したのが,《仏国記》つまり《高僧法顕伝》である。建康(南京)の道場寺でブッダバドラ(仏陀跋陀羅)とともに《摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)》《大般泥洹経(だいはつないおんきよう)》など6部63巻にのぼる経律を漢訳した後,荆州辛寺で亡くなった。この《摩訶僧祇律》は,やがて《四分律》にとって代わられるとはいえ,北朝では盛んに行われたのであり,《大般泥洹経》は早速に竺道生らによって研究され,涅槃(ねはん)宗成立の契機となった。法顕はまた,西域やインドの弥勒(みろく)信仰を中国に伝えたことでも知られる。
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百科事典マイペディア 「法顕」の意味・わかりやすい解説

法顕【ほっけん】

中国,東晋時代の僧。山西の人。中国の律蔵の不完全さを嘆き,インドに入ろうとし,志を同じくする者4人と399年長安を発し,中央アジアを経てインドに入った。滞留10余年,413年海路帰国。その旅行記が《仏国記》。伝来の経典は〈律〉〈阿含(あごん)〉〈涅槃(ねはん)経〉など多数。
→関連項目涅槃経仏教六朝文化

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「法顕」の解説

法顕(ほっけん)
Faxian

337頃~422頃

東晋の僧。平陽,武陽(山西省)の人。戒律の原典を求めるため,60余歳の老齢で,399年西域をへてインド,セイロンに渡り,412年海路帰国した。『仏国記』の記録を残し,建康(南京)で訳経を行った。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「法顕」の意味・わかりやすい解説

法顕
ほっけん
Fa-xian

[生]咸康3(337)頃
[没]永初3(422)頃
中国,東晋時代の僧。隆安3 (399) 年,陸路インドに向い,前後 15年の大旅行ののち,セイロン (現スリランカ) を経て,海路帰国した。持帰った梵本は,翻訳され,『大般泥 洹経』 (6巻) ,『摩訶僧祇律』 (40巻) などがある。『法顕伝』はその旅行記であり,1836年仏訳され,『仏国記』の名で知られた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「法顕」の解説

法顕
ほっけん

337ごろ〜422ごろ
東晋の僧
399年,60余歳にして,戒律の原典を求めてインドへの旅にのぼった。長安から西域諸国をへて,6年かかって中インドに達し,各地の仏跡をめぐった。さらにセイロン・東南アジアをめぐって412年に海路帰国。彼の持ち帰った経典は翻訳され,ことにその旅行記『仏国記』は,当時の西域・インド・南海諸国の事情を伝える貴重な史料である。

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世界大百科事典(旧版)内の法顕の言及

【グプタ朝】より

…このようにしてグプタ朝は3代,約85年間にベンガル湾からアラビア海に及ぶ北インド一帯を統一して大帝国を建設した。その隆昌のようすは,5世紀初めに北インドを訪れた法顕によって記されている。 第4代クマーラグプタ1世Kumāragupta Iの末年から,エフタルが西北インドに侵入し,カシミールから中央インドに進出した。…

【巡礼】より

…求法僧たちは,正法を学び梵経を将来することを第一の目的としたが,同時に仏跡を巡礼しようとしたのである。たとえば,東晋の法顕は,399年(隆安3)に長安を出発し,ヒマラヤを越えてインドの北部に入り,さらにインドの中部とスリランカの仏跡を巡拝し,412年(義熙8)に南海経由で帰国して,その間の見聞を《仏国記》または《法顕伝》として書き残した。唐の玄奘の旅行記である《大唐西域記》や義浄の《大唐西域求法高僧伝》は,いずれも仏跡巡礼記の性格を兼ね備えていたのである。…

【スリランカ】より

…マハウェリ水系,カラーKalā水系およびワラーウェWalawe水系を中核とする古代灌漑文明が長年月をかけて開花した。5世紀には中国僧法顕が来島し,当地の風物や仏教寺院などについて記録を残しており(《法顕伝》),スリランカは〈師子国(シンハラ)〉と記されている。彼を驚嘆させた仏塔などの大伽藍も,水利構造物の建築技術を活用していたことが知られている。…

※「法顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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