日本大百科全書(ニッポニカ) 「法医学」の意味・わかりやすい解説
法医学
ほういがく
forensic medicine
医学は基礎医学と応用医学の二つに大別され、応用医学はさらに3種類(臨床医学、衛生学、法医学)に分類される。応用医学に含まれる法医学とは、法に関する医学的事項を広く研究または応用する社会医学である。
法医学は、さらに基礎法医学と応用法医学とに分けられている。基礎法医学は、法医学の原理、基礎となる事項について研究するものである。したがって、その研究項目はきわめて広い範囲にわたり、血液型学、血清学、中毒学、法医解剖学、法医病理学、法医組織学、犯罪学、心理学、臨床法医学などのほか、医学以外の自然科学に関係する内容も一部含まれる。応用法医学は、法律上の実際問題、または犯罪捜査に医学を応用するもので、いわゆる法医学の実際活動といえる。司法上の応用としては、生体の検査、死体の検査、物体および痕跡(こんせき)検査、現場検査などがある。
[船尾忠孝]
司法上の応用
(1)生体の検査 性別、年齢の推定、発育および栄養状態、疾病、損傷の有無、精神状態、詐病(さびょう)(仮病)、匿病(病気を隠す)、作業能力、生殖能力、血液型、指紋、掌紋、足蹠(そくせき)紋、親子関係の有無、姦淫(かんいん)、妊娠、分娩(ぶんべん)、堕胎などの検査をいう。
(2)死体の検査 検屍(けんし)と解剖とがある。死因が不明で、その死因が明らかに犯罪と関係のあるもの、あるいは犯罪と関係があるかどうか疑わしい死体、さらには病死、自然死(老衰)以外の外因死、または両者のいずれであるか不明な場合、すなわち変死体である場合は、それを検屍する。変死であれば、自殺であるか他殺であるか、災害死、過失死であるかを鑑別し、さらに死因、死亡時刻、死亡状況その他を医学的に判断する(検案)。検屍によってこれらのことを明らかにすることができない場合には、死体を解剖する。
(3)物体および痕跡検査 血痕、精液、毛髪、胎便、胎脂、羊水、初乳、吐瀉(としゃ)物、骨、歯、指紋、掌紋、足蹠紋、足痕などの検査をいい、もっとも多いのが血痕検査である。
(4)現場検査 犯罪の行われた場所、または死体の発見された場所を検査することで、現場検証ともいわれている。通常、司法官、警察官が行うが、医学上の知識を必要とする場合には、法医学者または医師が立ち会うことがある。行政上の応用として、行旅死亡者の検屍または身元不明者の個人識別、交通事故、自殺、伝染病および中毒などの場合における監察医制度による行政検屍、行政解剖などがある。
[船尾忠孝]
法医学の歴史
法律に医学的知識が参酌されたのを広い意味の法医学とすると、西洋の法医学の歴史はきわめて古く、古代ギリシアにまでさかのぼる。また、中国の法医学の歴史もかなり古く、『書経』には法医学に関連する字句がみえる。南宋(なんそう)の宋慈(そうじ)(1186―1249)が『洗冤録(せんえんろく)』を出版したのは1247年であり、これはおそらく世界最古の法医学書であろう。『洗冤録』に次いで、趙逸斉(ちょういっさい)によって『平冤録(へいえんろく)』が著されている。元(げん)になると、王與(おうよ)(1260/1261―1346)が『洗冤録』と『平冤録』を参考にして、1308年『無冤録』を編纂(へんさん)する。この『無冤録』は朝鮮半島を経て、室町時代の終わりに日本に伝来し、やがて、徳川8代将軍吉宗(とくがわよしむね)のときに河合甚兵衛尚久(かわいじんべえなおひさ)によって『無冤録述』2巻が出版されている(1736)。この書は、徳川時代において裁判および犯罪捜査の宝典として重んぜられたものであり、その内容の真偽はともかく、腹上死であるか、あるいはそれをまねたものであるかの判別など、興味深いことが記載されている。ところで、日本における法医学的な伝説は『日本書紀』にまでさかのぼることができる。ここでは、「天照大神(あまてらすおおみかみ)は、月夜見尊(つくよみのみこと)が保食神(うけもちのかみ)を撃ち殺したことを聞くと、天熊人(あめのくまひと)を遣わし、その死体を検(しら)べさせた」とあり、これが検屍の初めともいえよう。
日本に西洋の法医学が入ってきたのは江戸末期であり、1862年(文久2)7月、オランダの軍医ポンペが、長崎伝習所において法医学医事法制を講義したのが最初であるとされている。ついで1875年(明治8)、前年開設された浅草猿屋町の警視庁第五病院に併設された裁判医学校において、デーニッツWilhelm Dönitz(1838―1912)による講義が行われている。彼は1873年に来朝し、東京医学校(東京大学医学部の前身)で解剖学を講じていた人である。さらに1876年に生理学教師として来朝したティーゲルErnst Tiegel(1849―1889)が、当時は学生であった片山国嘉(かたやまくによし)(1855―1931)を通訳として、裁判関係の所員および警視庁医員に訴訟医学を講じている。1878年には、当時、後藤新平が校長であった名古屋医学校でローレッツAlbrecht von Roretz(1846―1884)が、1880年には佐賀病院でデーニッツがそれぞれ裁判医学を開講した。1889年になると、帝国大学医科大学に日本で最初の法医学講座が「裁判医学」の名のもとに設定され、教授は片山国嘉が担当し、この年の4月4日、死因不明の男児屍の司法解剖が行われた。これは日本における司法解剖の第一号である。1891年、裁判医学の名称は法医学と改称され、それ以後、裁判医学教室は法医学教室とよばれるようになった。
[船尾忠孝]
鑑定
法医学の実際活動のなかでの重要な事項として鑑定がある。これは訴訟事件の審判手続において、裁判所の証拠調べの一種として、特別の学識経験ある第三者の意見を徴して裁判官の知識判断能力の補いとするためのもので、意見を供述する第三者を鑑定人という。また、鑑定は裁判所が命ずる以外に、裁判官、検察事務官、または司法警察員が捜査のために嘱託することがあって、司法解剖はその代表ともいえる。鑑定の結果は、鑑定書とよばれる文書で報告することが多く、口頭で述べることはきわめて少ない。また、訴訟中あるいはその前段階において、特定の医学的事項について弁護士から意見を求められることも多いが、報告に際しては、実質的に鑑定書と同様に処理すべきものである。
[船尾忠孝]
『船尾忠孝著『法医学入門』(1978・朝倉書店)』▽『上山滋太郎・富田功一編『標準法医学・医事法制』(1980・医学書院)』▽『石山昱夫著『法医学ノート』(1978・サイエンス社)』▽『八十島信之助著『法医学入門』(1966・中央公論社)』