沼館村(読み)ぬまたてむら

日本歴史地名大系 「沼館村」の解説

沼館村
ぬまたてむら

[現在地名]稲垣村沼館ぬまだて

田圃を隔てて北は沼館派、東は沼崎ぬまさき村、南は吉出よしいで村、西はかたり村に接する。

明治二八年(一八九五)の作成といわれる木津谷家の由緒書(稲垣村史)に、能登国の能登谷市兵衛と木津谷徳兵衛が開村した様子を次のように伝える。

<資料は省略されています>

享保一二年(一七二七)には広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて二三町八畝五歩、村高は一一八・三七三石であった。

沼館村
ぬまだてむら

[現在地名]大館市沼館

大館盆地の北西部、下内しもない川・長木ながき川の合流点付近に位置する。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「御代官所 百廿七石三斗 沼館村」とある。小字名神館かんだてが現存するほか、「八法山に館あり 麓に大なる沼あり 依つて沼館の名あり」と「郷村史略」にある。享保一五年(一七三〇)戸数は三〇軒(六郡郡邑記)で、以下、寛政一二年(一八〇〇)五〇戸、二六一人、安政四年(一八五七)五一戸、二三七人、同七年五七戸、二三六人(大館市史)

沼館村
ぬまだてむら

[現在地名]八戸市沼館・沼館一―四丁目

八戸城下の北に位置し、馬淵まべち川の河口右岸に沿う。東は小中野こなかの村、南は柏崎かしわざき村・売市うるいち村、川を挟んで西は石堂いしどう村、北西は河原木かわらぎ村に接する。集落地は微高地となっており、南北朝時代には工藤一族の居館があったともいう(南部諸城の研究)

元和四年(一六一八)知行目録に「三百七拾四石壱斗六升七合 あら屋、沼たて、小中野」とあり、藩政当初は盛岡藩に属し、根城南部氏に給されていた。

沼館村
ぬまだてむら

[現在地名]平内町沼館

東は浜子はまご村、南は鍋森なべもり山を隔てて松野木まつのき村と外童子そとどうじ村、西は小湊こみなと村、北は汐立しおだて川で福館ふくだて村に接し、また陸奥湾に面する。鎮守の神明宮は慶長年間(一五九六―一六一五)に七戸隼人が隣村浜子村に草創したが、寛永八年(一六三一)藩命により当村(場所は変わらないが管轄が変わり、現小湊町前萢)に移転された(創立棟札写「日光院伝来神社記録」佐々木高精氏蔵)というから、古い村である。

元禄二年(一六八九)の黒石平内巳年郷帳(市立弘前図書館蔵)には田方のみで村高一一石とある。

沼館村
ぬまだてむら

[現在地名]雄物川町沼館

北流する雄物川東岸、大曲おおまがり湯沢を結ぶ街道沿いにあり、北部を横手から由利郡へ通じる街道が東西に走る。交通上の要衝をなし、「梅津政景日記」寛永八年(一六三一)一〇月条に「川野目より沼館・朝舞・岩崎迄之道つくりとして、侍鉄砲之者両人差越申候、直ニ御泊、御昼休所へ付罷可有由申付候」と、初期から道づくりをした。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」にもと沼館城廻ぬまだてしろまわり村と称したとある。村名の由来は中世の館跡に由来し、「奥州後三年記」にみえる「沼柵」を沼館に比定する説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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