沼隈郡(読み)ぬまくまぐん

日本歴史地名大系 「沼隈郡」の解説

沼隈郡
ぬまくまぐん

面積:四三・一九平方キロ
沼隈ぬまくま町・内海うつみ

広島県の南東部、沼隈半島の南部を郡域とし、南面する瀬戸内海上に島・よこ(内海町)がある。東から西北にかけて福山市(旧沼隈郡)に囲まれ、西方もかつて旧沼隈郡に属した尾道市域である。

郡名は平城宮出土木簡に「備後国沼隈郡赤坂郷中男黒葛十斤」とみえる。「和名抄」によれば沼隈郡はわずか四郷しかない下郡に属し、史料こそないが、奈良時代初期の郡里制改編期に分立した郡と思われる。同じく平城宮出土木簡に、表に「備後国御調郡」、裏に「諫山里白米五斗」と記したものがあり、これは里を改めて郷とした霊亀元年(七一五)以前のものとみられ、「諫山」はのちの「和名抄」によれば沼隈郡内の郷名であるから、この頃にはまだ御調郡に属し、沼隈郡は分立していなかったと考えられる。しかし天平一二年(七四〇)以前とされる「律書残篇」は「和名抄」と同じく備後国の郡数を一四郡としており、沼隈郡が存在したことが知られる。すなわち沼隈郡は天平一二年以前、霊亀元年以降の奈良時代初期に御調郡などから分立したと考えられる。なお「延喜式」神名帳に沼名前ぬなくま神社があることからこのヌナクマを古郡名とする説もある。ちなみに「延喜式」(九条家本)民部省の郡名にはヌノクマと傍訓、「和名抄」国郡部は「奴乃久万」と訓ずる。

〔原始・古代〕

現郡域には旧石器時代および縄文時代の遺跡ともに知られていない。弥生時代の遺跡もきわめて少ないが、いわゆる山南さんな遺跡からは備後南部でも六振しか発見されていない銅剣が出土し、この頃には瀬戸内海より山南川をさかのぼった山間に集落が存在し、かなりの勢力をもった首長の統率のもとに稲作が行われていたと推察される。古墳は「山南村誌」や「沼隈郡誌」には横穴式石室のものが三基あったとされるが、現在はいずれも破壊されている。遺跡の分布状態から推定する限り旧沼隈郡では弥生・古墳時代には現福山市域の赤坂あかさか津之郷つのごう付近が中心であったと思われる。奈良時代以降になると須恵器を焼いた窯が郡内で発見されている。

「和名抄」記載の四郷、また「延喜式」神名帳記載の三社はいずれも現福山市域となっている。平安時代に入ると、現福山市域には藁江わらえ庄や長和ながわ庄が成立。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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