沙陀(読み)さだ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「沙陀」の意味・わかりやすい解説

沙陀
さだ

北アジア、西突厥(とっけつ)の一派。唐初には天山山脈の東部にいて、高宗(在位649~683)のとき唐の間接支配を受けたが、吐蕃(とばん)の圧迫を受けて北庭(ビシュバリク)方面へ移り、のち唐に降(くだ)った(808)。唐はこれをオルドスの塩州に置き、族長朱邪執宜(しゅやしつぎ)を西北辺の防衛にあたらせた。その子赤心(せきしん)は唐末の混乱期の反乱平定するのに功績をたて、唐から李国昌(りこくしょう)の姓名を与えられた。国昌の子李克用(りこくよう)は唐を助けて黄巣(こうそう)の乱の平定に努め、さらにその子李存勗(りそんきょく)は後梁(こうりょう)にかわって後唐(こうとう)を建てた(923)。五代の後晋(こうしん)、後漢(こうかん)も、沙陀の建てた王朝である。

[護 雅夫]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「沙陀」の解説

沙陀(さだ)
sha-tuo

西突厥(にしとっけつ)の一派とされるが,実際には多種族の集合体と考えられる。名称は居住地の沙磧(させき)名にちなむという。天山山脈の東部にいて唐に朝貢。のちに東進し,9世紀初めに唐に帰属。中心勢力はオルドスをへて山西の北部に移り,族長朱邪執宜(しゅやしつぎ)は北辺防備の任にあたった。その子赤心(せきしん)は,龐勛(ほうくん)の乱の平定に功績を立て,唐から李国昌(りこくしょう)の姓名を賜わり,赤心の子李克用(りこくよう)は五代の後唐始祖となった。五代の後晋後漢(こうかん)も,沙陀の血統につながる一族が建てた王朝である。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沙陀」の意味・わかりやすい解説

沙陀
さだ
Sha-tuo; Sha-t`o

西突厥の一派。中国,唐初,天山山脈東部に居住したが,吐蕃の圧迫を受けて北庭 (ビシュバリク) ,甘州に移動し,元和3 (808) 年唐に服属。部長の朱邪執宜 (しゅやしつぎ) は陰山府兵馬使に任じられ,その子の朱邪赤心 (しゅやせきしん) は唐で起った農民反乱鎮圧に功績を立てたため大同軍節度使の官を与えられ,姓を李,名を国昌と賜わった。彼の子の李克用 (りこくよう) は五代の後唐を建て,また,同じく五代の後晋,後漢の建国者も沙陀の一族であると伝えられる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「沙陀」の解説

沙陀
さだ

唐代から五代にかけて活躍した突厥 (とつけつ) の一派
唐初期は天山山脈東部にいて,唐の間接支配を受けた。8世紀末に一時吐蕃 (とばん) に服したが,808年部将朱邪執宜 (しゆやしつぎ) が唐に走り,唐北西部の防御につとめた。その子赤心 (せきしん) は唐末期の反乱鎮定に功績があり,李国昌の姓名を与えられた。赤心の子の李克用 (こくよう) は黄巣の乱の平定を助け,その子李存勗 (そんきよく) は後唐 (こうとう) を建国した。五代の後晋・後漢 (こうかん) も沙陀族の建てた王朝である。

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