沖之島・新島(読み)おきのしま・しんしま

日本歴史地名大系 「沖之島・新島」の解説

沖之島・新島
おきのしま・しんしま

香取海に形成されていた堆積砂洲。現在の利根川常陸利根川および霞ヶ浦などに囲まれた一帯で、佐原市北部から茨城県あずま村東部などにわたる。近世初頭には十六島じゆうろくしま新田と総称される開発が行われた。

常陸国風土記」行方なめかた郡の項に「板来の南の海に洲あり。三四里許なり」と記される洲がこれに相当すると考えられ、春には香島かしま(鹿島)・行方両郡の男女がことごとく訪れ、貝類を拾ったとある。中世には沖之島とよばれ、至徳二年(一三八五)の神崎庄所課祭礼物注文写(香取文書)にヲシスナ(押砂)曲淵まがふち・ケツサ(結佐、以上現東村)など後の十六島新田に属する地名がみえ、押砂・曲淵は四石一斗六升を、結佐は三月の初午に鱒を七桶半、香取社に納めており、すでに耕地化が進んでいたと思われる。応永五年(一三九八)佐原案主吉房は「川中之ほまち一、かわむかいのほまち一、しまめくりのほまち一」などを弥二郎に譲っており(同年一〇月一二日「佐原案主吉房譲状」同文書)、これは当地内とみられる。「ほまち」はひそかに開発された新開地で、領主から検注を受けていない無税地と考えられる。

天正一八年(一五九〇)八月徳川家康が関東に入封するが、同年三月一八日小見川おみがわ(現小見川町)にいた家康の代官吉田佐太郎が江戸崎えどさき(現茨城県江戸崎町)城主土岐氏旧臣の石田駿河守に年貢は「古より御定のことく三ケ年不入」とする条件で「沖島北はす新田」の開発を許可している(「新田開発認可状」山来家文書)。同年四月にはこの地を諸役免許の守護不入とする徳川家康黒印状(同文書)が小見川代官に出され、そのなかで「新嶋」と名付けられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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