沃沮(読み)ヨクソ(英語表記)Wò jù
Okchǒ

デジタル大辞泉 「沃沮」の意味・読み・例文・類語

よくそ【沃×沮】

中国時代に朝鮮半島北東部にいた古代民族。また、その居住地

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「沃沮」の意味・読み・例文・類語

よくそ【沃沮】

〘名〙 漢代に、中国東北地方から朝鮮半島北東部にかけて住んでいた貊(ばく)族の一種。また、その住んでいた土地。〔後漢書東夷伝・東沃沮〕

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「沃沮」の意味・わかりやすい解説

沃沮 (よくそ)
Wò jù
Okchǒ

古代の朝鮮半島北東から現在の中国の東北方面北方にかけて居住していた部族名。またその国名,地名。沃沮については最も詳細な記録を残した《三国志》魏志東夷列伝によると,沃沮族は半島の北東部,すなわち現在の咸鏡道からその北方に居住していたようであるが,古文献ではさらに北方のウスリー江流域一帯に存在していたらしい。北は挹婁(ゆうろう)や夫余ふよ)族,南では濊貊(わいばく)に接し,西方には高句麗の勢力があった。その言語は高句麗と大同小異で,四方強敵に包囲されているため,必然的に高句麗の直接間接の支配をうけざるをえなかった。前108年,漢の武帝が漢四郡を設けたとき,沃沮は玄菟郡(げんとぐん)治に入った。そのころの中心地は現在の咸興に比定されている。しかし高句麗族の強大化にともないその支配に屈した。3世紀半ば曹魏の毋丘倹(かんきゆうけん)の高句麗遠征のおりには,高句麗王の宮(位宮)が沃沮に亡命したので沃沮も魏軍の討伐をうけ,245年,玄菟太守王頎(おうき)の攻略に下った。このとき高句麗王はさらに逃れて北沃沮に走ったという。しかし北沃沮とか南沃沮とかの区別は便宜的なもので,部族的に特別の違いはなかったようである。また,沃沮の文化で注目されるのは独自の習俗とともに,かなり中国文化の影響が及んでいることである。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「沃沮」の意味・わかりやすい解説

沃沮
よくそ

朝鮮北東部の古代民族とその居住地の名。『魏志東沃沮伝(ぎしとうよくそでん)』によれば、地形南北に長く、北は挹婁(ゆうろう)、夫余(ふよ)、南は濊貊(わいばく)に接し、戸数は5000戸で、大君主はいず、邑(ゆう)ごとに長帥(首長)がいて、言語は高句麗(こうくり)とほぼ同じという。前漢の初め、衛氏(えいし)朝鮮に臣属したが、武帝が四郡を置くと(前108)、玄菟(げんと)郡の支配を受けた。のちに高句麗に臣属したが、魏の毌丘倹(かんきゅうけん)の高句麗攻撃(244、245)の余波を受けて、その居住地は荒廃した。

[浜田耕策]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沃沮」の意味・わかりやすい解説

沃沮
よくそ
Okchǒ

朝鮮,咸鏡道方面に居住していた古代部族名,ならびに地域の名称。夭沮とも記す。文献上,初めての詳説は『三国志』魏志東夷伝である。これによれば,彼らは中国文化を取入れて高度の文化をもち,高句麗とあまり変らないとされている。高句麗の台頭に伴いその支配を受け,三国時代には魏軍の侵略を受けた。なお沃沮は五千余戸の部族社会で,土地は肥沃で農耕が発達,魚,塩など海産物も豊富であった。また南北に分裂しており,南沃沮は高句麗の東のため東沃沮とも呼ばれた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android