江戸町(読み)えどちょう

精選版 日本国語大辞典 「江戸町」の意味・読み・例文・類語

えど‐ちょう ‥チャウ【江戸町】

江戸吉原五町の一つ。元吉原・新吉原ともにあり、大門に近く、一・二丁目が左右に分かれていた。

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日本歴史地名大系 「江戸町」の解説

江戸町
えどまち

[現在地名]長崎市江戸町

平戸ひらど町・大村おおむら町の西、地獄じごく川河口右岸にある長崎うち町の一ヵ町で、船手に属した。町並は南西に形成され、西に出島でじま町がある(享和二年長崎絵図)。天正一三年(一五八五)より文禄元年(一五九二)までの間にナンカミサキの南西端森崎もりさきを切崩して成立、豊臣秀吉直轄領となり、地子銀が免除された。「長崎昔ハ深江浦」と称し、「江戸町、椛島町迄ハ漁者塩焼所々に住居し、下町より築町迄ハ海、其外今の外町之分ハ田畑少し有り」という(山口家本「長崎根元記」)。元亀二年(一五七一)フィゲイレド神父は大村純忠から寄進された当地に教会を建立、増築をはかったが、文禄元年長崎奉行の命で取壊され、肥前名護屋なごや(現佐賀県鎮西町)に運ばれたという。同二年豊臣秀吉の許可を得て再び教会が建てられ、慶長六年(一六〇一)完成、被昇天の聖母の教会と称された。傍らにコレジオの聖パウロ学院があり、セミナリオが仮設され、画学舎もイルマン・ニコラオが中心になって開設され、ローマ字の印刷機も置かれた。司教の家も併設された。セミナリオは同年一〇月有馬に移転した。同一九年一一月に徳川家康の命で平戸松浦隆信の家臣が破却した。跡地に長崎奉行東・西役所が建立される。

寛永一一年(一六三四)の出島造成により町並の整備が進み、コンプラドール仲間や阿蘭陀通詞会所、阿蘭陀通詞の楢林家など貿易関連の屋敷や施設が多かった。

江戸町
えどまち

[現在地名]川越市大手町おおてまち元町もとまち

川越城西大手前正面から南へ延びる川越街道の両側町町人町で、城下一〇ヵ町のうち上五ヵ町の一。町名は江戸との往還(川越街道。江戸道ともいう)に位置することに由来。一七世紀後半頃の川越城図に江戸町とみえ、江戸道の両側が町屋である。東は城の堀と北久保きたくぼ町、西は多賀たが町。江戸道は上松江かみまつえ町との接点で東に屈折している。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では町の長さ一六六間、家数三六・店数二八、男一九一・女一六八。宝永二年(一七〇五)の川越惣町中御伝馬小役御国役帳では東側一七名、西側一九名(うち一名は桶大工棟梁)で、伝馬小役二三・小役五・桶大工丸役一・半役二軒分を負担していた。なお「風土記稿」によれば西大手門正面(本町と接する地)あらためといい、もと唐人とうじん小路ともよび、かつてはほん町に属していたという。改はもと城内蔵入米を点検した所とも、罪科の糾明をした所ともいい、南方の角に中間頭・小役人の住んだ大部屋とよばれる侍屋敷があった(風土記稿・川越索麪)

江戸町
えどまち

[現在地名]関宿町江戸町

だい町の西に続く町人町。北上してきた日光東往還は台町北東端で西に折れ、江戸川(逆川)に至る。当町はこの東西路に沿って町場を形成した。江戸川に沿って河岸場(内河岸)が置かれ、また日光東往還の宿(関宿宿)としても機能した。ただし台町と同じく村方としても扱われた。寛文五年(一六六五)関宿城主板倉重常は居城の外郭にあたった当町を掘削してさかさ川を作り、城の防衛を厳にするとともに、利根川と権現堂ごんげんどう川・江戸川とを合流させ、江戸への通船の便を開いた。この掘削により当町の一部が逆川の西側に飛地となる。

江戸町
えどまち

[現在地名]福井市宝永ほうえい三―四丁目・春山はるやま一丁目

福井城の北の外堀の北側を東西に走る通りに沿う町で、郭外に配置された侍屋敷町。東からかみ・中・下の江戸町が並び、北は松本まつもと町・神明しんめい町の町人町に隣接する。慶長一六年(一六一一)九月、将軍徳川秀忠の三女勝子(高田姫)松平忠直に嫁するため江戸から下向。

江戸町
えどまち

[現在地名]桑名市江戸町

川口かわぐちの南に続き、東海道筋にある南北長さ七五間余の町屋敷地。東は堀を隔てて城内三之丸さんのまるに対し、北端に北大手きたおおて橋、南端を西折すると桑名宗社門前の広小路ひろこうじがある。中央部から西は美濃街道に通じる。江戸時代以前はもろ町と称していた。「公私爪録」(「桑名志」所引)によると「諸町トハ今ノ江戸町ノ旧名ナリ。太田寿軒ノ父渡辺忠八江戸ヨリ来リ住居セシ故、江戸町ト云ナラハセリ」とある。慶長一八年(一六一三)七月一五日の踊の城内への練込み順に「三番江戸町片町一組」(慶長自記「桑名市史」補篇所収)と江戸町の名が初見される。

江戸町
えどまち

[現在地名]東区和泉いずみ町一丁目

善安ぜんなん筋を境に藤森ふじのもり町の西に延びる両側町。山城伏見ふしみから移った町で、もと伏見江戸町と称した(初発言上候帳面写)。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に江戸町とみえる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数二四・役数二六役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は鴻池屋甚右衛門。宗旨組合は和泉町に同じ。「難波鶴」に大和新城藩屋敷、膏薬・目薬屋一、延享版「難波丸綱目」に伊勢尾張飛脚一が載る。

江戸町
えどまち

[現在地名]福江市栄町さかえまち

福江城の北にある。江戸定府とも称された。小松原こまつばら橋がある。町名は福江城の築城に際し棟梁斉藤氏らを江戸から召抱えて居住させたことによるという。寛永一一年(一六三四)福江直りに伴って町割が行われた町の一つで、同年の屋敷数五(五島編年史)石田城見取図(太田家蔵)では小松原門の西手に小松原橋が架かり、その北に御役所と記される。

江戸町
えどまち

[現在地名]彦根市京町きようまち二丁目

外大工そとだいく町の南にある両側町で、東は中組西なかぐみにし町。寛永一三年(一六三六)に町割が行われ、江戸衆を招き寄せ移住させて成立した(彦根市史)。慶安四年(一六五一)の万留書(同書)では禄高五〇〇―三〇〇石の武士一人、三〇〇―一〇〇石が一九人の居住が確認され、江戸後期には松原蔵奉行の堀氏(禄高一〇〇石)、鷹野先払役の木村氏、弘道こうどう館諸用役の河村氏などが住した(井伊家役人帳など)

江戸町
えどちよう

[現在地名]水戸市ほん町一丁目

本二町目の西側から南に及び、うら一町目と裏二町目の間から道明橋に至る町。東は裏二町目、北は本一町目・本二町目。「水府地名考」に「この所は江戸へ出す魚物類を荷造り出す所ゆへ、町名となりしと見ゆ、正保二年より、元禄三年の旧記には、江戸肴町と見へ、宝永中よりハ、江戸町とのミ見ゆと云、されば其比より今の如く唱へしと見へたり」とある。

江戸町
えどまち

[現在地名]松山市味酒町みさけまち一丁目・宮田町みやたまち大手町おおてまち二丁目

松山城下町の西端に位置し、郷村への通路となっていた。東はかや町に接するが、西・南・北の三方は味酒村に隣接した。町名の初見は元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「外巡町弐拾三町」のなかにある。

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