江戸湾防備(読み)えどわんぼうび

世界大百科事典(旧版)内の江戸湾防備の言及

【伊豆国】より

…天城炭は,天城山御林で御用材の原材の下付をうけて製炭,江戸に運搬され,江戸の消費にこたえた。 寛政年間,ラクスマンの根室来航等,海防問題がもち上がると,江戸湾防備上重大な立地をなす伊豆は再び注目され,1793年(寛政5)老中松平定信が伊豆東海岸を巡視したのをはじめ,1808年(文化5)鉄砲方井上左太夫の大筒試射,39年(天保10)鳥居耀蔵,江川英竜の海防見分などがあり,42年下田奉行が再置された。ペリー来航と日米和親条約の締結は鎖国体制を幕府みずからが打破しただけでなく,海防を緊要とした。…

【浦賀奉行】より

…また三浦郡内幕領や領地,役地の支配も管掌した。幕末に至り異国船来航が盛んになるにともなって江戸湾防備をも兼ね,1819年(文政2)から奉行も2人役となり,江戸と浦賀の月番勤務となった。その後42年(天保13)12月に1人役に,44年(弘化1)2人役,62年(文久2)1人役となり現地で在職した。…

【忍藩】より

…その後1823年(文政6)阿部正権(まさのり)は陸奥国白河へ転じ,伊勢国桑名から松平忠尭が10万石で入封した。忍藩には藩政のほか重要な任務として川俣関所の警備があり,さらに松平氏時代には42年(天保13)以降房総沿岸の警備が命ぜられ富津と竹ヶ岡に陣屋を築き江戸湾防備にあたった。また53年(嘉永6)ペリー来航により,房総より転じて品川の第3台場の防衛を分担した。…

【海防】より

…ロシアの千島進出による蝦夷地問題を契機に,林子平,本多利明,工藤平助らが,蝦夷地開発とともに海防の必要性を説いた。とくに,1792年(寛政4),ロシア使節ラクスマンが根室に渡来して通商を求め,江戸回航を主張するに及んで老中松平定信は,長崎以外に海防体制のない欠陥を痛感し,北国郡代設置による北方防備を構想するとともに,みずから伊豆,相模を巡検して江戸湾防備体制の構築を練った。1806年(文化3)以降の蝦夷地におけるロシアとの紛争,08年のフェートン号事件を契機に,10年,会津藩に相模,白河藩に上総,安房の沿岸の防備を命じて砲台を築き,江戸湾防備にあたらせた。…

※「江戸湾防備」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」